第4次伊藤博文内閣で与党となった立憲政友会とは?

立憲政友会とは

 

立憲政友会(りっけんせいゆうかい)とは西暦1900年(明治33年)に結成された政党の名前です。この政党は旧自由党系の勢力が残留した政党「憲政党」と元老である伊藤博文さんと関係が深い政府のお役人さんが共同し伊藤博文さんを中心として結成されました。伊藤博文さんは当時の秩序を維持し日本の利益を重視する政党が衆議院の中で力を得る必要があると考えこの政党を作ろうと考えたそうです。立憲政友会結成に伴って憲政党は解党となってしまいます。

初代総裁には伊藤博文さんが就任しています。2代目の総裁には西園寺公望(さいおんじきんもち)という人が就任しました。

この政党の支持基盤は地方の有力な地主、企業出資者、企業経営者だったそうです。財閥との関係もあったそうで、有名な三井財閥は立憲政友会立ち上げの時に資金提供し、その後もこの政党を支援する間柄であったそうです。

立憲政友会は西暦1940年に大政翼賛会に合流するまで政党として活動し続けることとなります。

 

スポンサーリンク

第4次伊藤博文内閣

 

第1次大隈重信内閣が短期間で倒れた後、第2次山県有朋内閣が発足します。憲政党の協力を得て増税を実現したものの、その後文官任用令の改正、治安警察法制定、軍部大臣現役武官制の制定といった行政分野での政党の影響力を弱めることを意図した仕組みを作ることによって、政党からの協力は得られなくなっていき政権運営が難しくなります。そのような状態となり山県さんは内閣総理大臣を辞職し次の総理大臣に伊藤博文さんを推薦したそうです。山県さんが辞職したのは西暦1900年。立憲政友会が結成された後の辞職だったそうです。その後推薦通り伊藤博文さんが総理大臣となる内閣、第4次伊藤博文内閣が発足します。

スポンサーリンク

立憲政友会が与党となる伊藤内閣でしたが政権の運営は安定しませんでした。この内閣で逓信大臣(郵便制度、通信分野を担当する役所の大臣です)だった元憲政党でこの時政友会の議員でもあった星亨(ほしとおる)さんが当時問題となっていた東京市の贈収賄事件に関与していたと疑われてしまいました。星さんは東京市の参事会員だった経歴があり東京市の議会に影響力を持つ立場だったのだそうです。この件については貴族院が熱心に星大臣を攻撃したそうです。結局星さんは大臣を辞職しました。

1900年の12月下旬に第15議会が開かれ、予算案の審議は衆議院では大きな反発も無く通過したものの、もう一つの議会、貴族院では反対意見が多く貴族院を通過しませんでした。結局明治天皇の助けによって貴族院を通過します。このように第4次伊藤内閣は発足後、貴族院からの攻撃で政権の運営に苦労しました。

伊藤首相が辞職した直接の理由は日本全国の鉄道を建設するための財源を巡って内閣内部での対立(大臣間での対立)が激化し内閣をまとめていくことが難しくなったからということのようです。伊藤首相が辞職したのは1901年5月のことでした。

 

スポンサーリンク

今回は第2次山県内閣の次の内閣、第4次伊藤内閣とこの内閣の与党となった立憲政友会について取りあげてみました。立憲政友会はその後も議会内でたくさんの議席を占めることとなる有名な政党ですし、どのような性格の政党であるかも調べてみたくこのような記事にしてみました。またこのような大きな政党が与党となった内閣がどういう経過をたどるのかについても関心がありました。

確かに衆議院で多数の議席を占める政友会のおかげで内閣の提出する予算案は衆議院を通るものの、今まであまり通過を阻止していなかったもう一つの議会、貴族院が内閣の邪魔をしてしまいます。政党の関与しない内閣には優しかった貴族院は政党内閣には厳しい姿勢になってしまうんですね。貴族院を構成する華族議員、官僚出身議員は政党を警戒していたということなのでしょうね。

貴族でも元老でもない人物がリーダーとなっている政党を貴族院が警戒するのならわかる気もしますが、元老の伊藤さんが率いている政党だったら貴族院も安心するというわけではないんですね。そこはわかりにくい感じがします。2代目の総裁をする西園寺さんも華族の方ですから貴族院にとっては仲間のように映るのではないかという気もしますけれどね。貴族院がこの内閣に厳しかった理由は、政党に不信感を持っていた山県有朋さんが陰で動いていたからという指摘もあるそうです。

政党所属の衆議院議員が多かったということは多くの選挙民が政党を一応支持していたということになりますが、そのような政党を貴族院や元老は警戒していたということは、貴族院や元老は選挙民の発言力を警戒していたということになりますね。衆議院という議会や衆議院議員を選ぶ選挙制度はあるものの、選挙民の政治参加を実際のところ特権階級は歓迎していなかったということになるでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

護憲運動関連記事「第一次護憲運動とは?中心人物や自由民権運動との違いについても」はこちらです。

護憲運動関連記事「第二次護憲運動とは?運動の原因や内閣の対応についても」はこちらです。

関連記事

ページ上部へ戻る