大正政変とは?この政変が起きた原因や政変の意義についても

大正政変とは

 

大正政変(たいしょうせいへん)とは西暦1912年(明治45年、大正元年)から1913年にかけての内閣、政権の変化を意味することが多いです。

1912年の12月に第2次西園寺内閣が陸軍から拒否される中で陸軍大臣を決めることが出来ないことを理由に退陣します。その直後に次の内閣である桂太郎内閣が誕生するものの、極短期間(53日だそうです)1913年の2月で総辞職し退陣する結果となりました。そして次の内閣、山本権兵衛内閣が誕生することとなります。大正政変はこの過程のうち、桂内閣退陣までのことを指すことが多いようです。

 

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大正政変の原因とは

 

まず第2次西園寺内閣が退陣した理由である陸軍大臣の擁立が陸軍側の意向で困難になったことが原因の一つとなると思われます。陸軍は兵員を増やすことを西園寺内閣に求めましたが予算の理由で西園寺首相はそれを断ります。陸軍の要求が通らないことを理由に上原陸軍大臣が辞職し代わりの陸軍大臣を立てようにも現役の陸軍中将、大将で引き受けてくれる人がおらず皆拒否。結果西園寺内閣は退陣しました。

政変の他の原因としては桂太郎さんという人が内閣を組織したことにあるようです。宮中で内大臣として大正天皇の近くで仕えていた桂さんが政治的発言力のある元老勢力の意向で次の総理大臣となりました。これまで2回政権を担当した経験のある方ですが、一度天皇の近くに仕える立場になった人物が政権を担当することになったのはこれまでの慣習上好ましくないという批判を浴びる結果となりました。宮中で天皇の近くにいて仕える人物が政治の世界で活動することは天皇の直接の政治関与、場合によっては天皇の政治責任の追及を受けることに繋がりかねない。宮中の人間が政府に関わることはそのような危険性があるのに、内大臣だった桂さんが政権を担当するなんて。ということで批判されたようです。

こういったいきさつで政党政治家や言論界の人たちや都市の民衆の中で護憲運動と呼ばれる藩閥勢力の横暴や衆議院の意見を政治にいかすよう求める運動が強まっていきました。

桂内閣はこのような政党や民衆の動きに対し、国会の停会を頻繁に行い、衆議院内に桂内閣と連携する新しい政党を作るよう動き回りました。この国会の停会に対し護憲運動を行う側は反発を強めていきます。議会を運動側の民衆が取り囲む事態となり結果的には桂内閣が総辞職することとなりました。そのため護憲運動側の反発を強める結果となった桂内閣の衆議院の停会も政変の原因なのではないかと思われます。

 

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政変の意義

 

立憲政友会という衆議院の中で大きな勢力を占める政党の代表として西園寺さんが政権を担当していた中、藩閥勢力とつながりの強い陸軍側がその政権を倒してしまいました。それ以降政党政治家や民衆が運動を起こして藩閥勢力の意向で誕生した桂太郎内閣を退陣に追い込む結果となったわけです。

これによって国民の意見を代弁する立場である政党の影響力が強まり、藩閥勢力の発言力を弱める結果となりました。国民の意向をより反映する政治勢力が力を得ることになったわけなので、民主政治がより良いという立場からすると望ましい方向に政治が変化した画期的な出来事と言えるでしょう。

桂太郎内閣の後に誕生した山本権兵衛内閣では実際にこれまでと比べ政党勢力に配慮した制度改革を行ったようです。

 

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今回は大正政変について取りあげてみました。たくさんの国民が参加して政府に対する要求を掲げ、その結果当時の政権を退陣に追い込んだという日本のこれまでの議会の歴史上初めての出来事だったようですし、後に国民からの政治の民主化要求が強まり大正デモクラシーと呼ばれるそうなのですがそのような潮流にもつながる出来事だったそうです。民主主義的な政治の恩恵を受けている現在の世の中で生活している自分にとって、やはり重要な出来事なのだろうなと思い取りあげてみました。

民主政治にさらに近付いた象徴的な一連の出来事としては意義深いなと確かに思います。ただ、調べていて気になることもありました。桂内閣の時に強まった護憲運動ですが、平和に運動をおこなうのなら何も問題は無いと思うのですが、この運動が大変盛り上がった時、運動に参加する一部の人たちによって交番や警察署、政権側を擁護する新聞社が襲撃されたということもあったのだそうです。個人的にはこのような暴動行為については賛成する気にはなれません。死者やけが人が出たのかについてはよくわかりませんでしたが、日露戦争後の講和条約に不満な国民が暴動を起こした日比谷焼打ち事件の時と似たような現象にも見えます。

たくさんの国民を巻き込む運動というのはどうしても過激な行為に走ってしまう人を生み出してしまうものなのでしょうか。その結果思いもしない被害を受ける人が出てくるなんてことが無いように運動を行う側も気を付けなければならないですね。かつての自由民権運動も運動に関わる一部の人の過激な事件をきっかけにして運動の勢いがそれまでと比べ弱まっていったという指摘もあるようですし。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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