陸軍による2個師団増設要求が第二次大隈内閣で議会通過するまで

2個師団増設要求

 

2個師団増設要求(2こしだんぞうせつようきゅう)が最初に陸軍から出たのは西園寺公望(さいおんじきんもち)という人が2回目に首相を務める第2次西園寺内閣が政治を行っていた西暦1911年(明治44年)です。しかし西園寺内閣は政府が一年間に使うお金の額を増やさないことで国民の税負担を重くしないことを重視していたためたくさん予算を使うことになる2個師団増設の要求を認めませんでした。「師団しだん」は兵員の数の単位で時代や国によっても異なるようですが1師団に6000人から20000人の兵員が所属するようです。

西園寺内閣が陸軍の要求を受け入れないことで当時の陸軍大臣が辞職し、陸軍は陸軍大臣となる新たな人材を内閣に出さないという異例の対応をとり、その結果陸軍大臣を立てることの出来なくなった西園寺内閣は退陣に追い込まれました。

次の政権であった桂太郎(かつらたろう)が首相となった第3次桂内閣は衆議院で多数の議席を持つ立憲政友会や立憲国民党といった政党勢力や民衆から強い批判を受け極短期間で首相を辞任し退陣しました。この短期間の間に国会は停会するばかりで2個師団増設を衆議院などの議会で通すようなことは出来ませんでした。

桂内閣が退陣した後に誕生した山本権兵衛という人が首相を担当した山本内閣でも2個師団増設要求は退けられました。山本内閣は海軍の汚職事件を理由に世の中から大変な批判を受け退陣することになります。その後政治的発言力の強い元老と呼ばれる人たちの話し合いで大隈重信という人に首相をさせようということとなりました。大隈さんもこの提案を受け入れ第2次大隈内閣が誕生します。

 

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第2次大隈内閣での2個師団増設の取り扱い

 

内閣を担当するにあたって、大隈さんは元老の人たちから「必要だから2個師団増設は実現するように」と依頼されていました。約束通り2個師団増設を盛り込んだ予算案を大隈内閣は議会に提出します。しかし当時衆議院でたくさんの議席を持っていた政友会はこの2個師団増設について反対し実現の見通しが立ちませんでした。そのため大隈首相は衆議院を解散し総選挙を行います。

 

第12回衆議院議員総選挙

 

この総選挙は1915年に行われています。大隈重信さんは国民から大変人気もあり、選挙資金をふんだんに使った選挙戦を行ったということや大隈内閣の内務(ないむ)大臣、大浦兼武(おおうらかねたけ)という人が内務大臣の職権を利用し、政治的に敵対関係にあった立憲政友会の議員の選挙区で選挙干渉、政友会側の選挙活動の邪魔を行いました。このような状況で行われた総選挙ですが、大隈内閣を支えていた立憲同志会が大幅に議席を増やし一方政友会は議席をかなり減らしました。立憲同志会は選挙前90人ほどの勢力だったようですがこの選挙で153議席となり、政友会は第11回の総選挙で209議席も獲得していましたが今回の第12回総選挙では108議席まで減らしています。大隈内閣を支える側の政党、与党には立憲同志会の他にも中正会などの政党があり、合計すると衆議院で与党勢力は野党勢力を上回る結果となりました。

 

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特別議会

 

第12回総選挙の2か月後特別議会が開かれ、この国会で2個師団増設は当時多数の議席を占めている与党の賛成によって認められることとなりました。こうして大隈内閣は元老の人たちから求められていた2個師団増設という約束を果たす結果となります。1911年以降散々議会や内閣から反対されてきた陸軍2個師団増設は1914年に発足した大隈重信内閣が解散総選挙によって議会の勢力図を大幅に変更することで実現されることとなりました。

 

今回は第2次大隈内閣の時期に2個師団増設が議会を通過するまでの話を取りあげました。長年議会や内閣から反対されていたにもかかわらず、陸軍兵員の増員がなぜ大隈内閣で実現したのか妙な気がしたので理由を知りたかったというのがこのテーマで今回記事を作ってみた理由です。大隈さんという政治家の国民からの人気とたくさんのお金を使った選挙戦と選挙干渉により、総選挙で2個師団増設賛成派が多数の議席を占めたことが2個師団増設実現の理由となったようです。2個師団増設を実現したい元老の人たちが大隈さんに首相を担当させようとしたのはこのような選挙に強い、国民に人気があるということを利用できると考えたからということでしょうか。

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一部の指摘では元老の人たちが望んでいたのは2個師団増設と議会内で立憲政友会の勢力が力を弱めることだったそうですから、その指摘が正しければ、第12回衆議院議員総選挙での大勝によって元老の人たちの望みはものの見事に実現したことになります。大隈内閣は2個師団増設が議会で認められた後は元老との関係も悪化していったようで、1916年10月に総辞職することとなります。「我々(元老の人たち)の目的は達したし、あなたの役目は終わったのだから、さっさと舞台から降りなさい」というところでしょうか。大隈さんは元老の人たちの政策実現、勢力維持のために利用されたということなのかなと記事を作っていて感じました。大隈さんなりの理想を政治に反映させたくてこの内閣の話に乗ったのかもしれませんが、大隈さんの人気を利用されただけだったということならむなしい話ですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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