ヴェルサイユ条約とは?ドイツの反応や日本の関わる内容についても

ヴェルサイユ条約とは

 

ヴェルサイユ条約とは西暦1919年(大正8年)に調印された講和条約です。講和条約というのは戦争を終結させるための条約です。第一次世界大戦を戦ったイギリス、フランスなどを中心とした連合国側と相手として戦ったドイツとの間で締結されています。条約が調印される前の時期、連合国側とドイツの戦闘は1918年の11月に休戦協定が成立したことで止まってはいました。ヴェルサイユ条約の中身はこの条約を結ぶ前に行われた国際会議、パリ講和会議で協議された内容に基づいており、ドイツに対して多額の賠償金支払いや領土の一部を他国に譲り渡すこと、全ての植民地や他国に存在する権益を放棄すること、「武装する権利」を制限するなどといったような、ドイツにとって大変厳しい内容となりました。この条約の中には国際機関である国際連盟を設立する内容も盛り込まれています。多額の賠償金についてですが、これは条約締結後に額が決められたそうです。1320億金マルクという額になりました。ただしこの額はあまりに厳しすぎるということで1320億金マルクと決められた後10年以上経過してから30億金マルクまで減額してもらったそうです。1320億金マルクは1金マルクが358mgの金と同じ価値があるそうですから最近の金の価格が1gで4800円くらいとしますと1mgは4.8円となります。1金マルクは358mg×4.8円ですから1718.4円になります。ですから1320億金マルクは日本円で1718.4円×1320億=226兆8288億円くらいということになります。恐ろしい金額です。領土の一部を譲り渡すことについては自国の領土の10%以上を失うこととなってしまったそうです。また自国として残った地域についても一部は非武装地域とすることが義務付けられました。

 

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ヴェルサイユ条約に関するドイツの反応

 

当時のドイツ政府を支持する与党勢力(複数の政党が与党でした)はいくつかの条件が認められたらという前提で条約の調印について結果的に承認したそうですが内容が示された当初は反対意見のほうが多かった政党もあったようです。結局ドイツ帝国皇帝に対する責任追及を行わないことやドイツ人を戦争犯罪人として処罰しないことを条件として条約内容を受け入れることとなりました。ドイツ国民レベルでは戦闘で負けたという印象が薄かったそうで条約内容が明るみになった後、ドイツにとってあまりに厳しい内容だったので非常に強い反発がありました。この国民感情を利用して一部のドイツ軍人が当時のドイツの政権を武力で倒そうとする事件(クーデターということですね)も発生したそうです。

 

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ヴェルサイユ条約の中で日本の関わる話

 

この条約の中に記された日本に大きく関わる話としては中国大陸の山東半島に存在するドイツの権益とドイツ領ニューギニアの内、カロリン諸島、マーシャル諸島、マリアナ諸島、パラオといった領域の権利があります。ドイツ領ニューギニアについては日本とイギリスとオーストラリアで分割することとなりました。その結果日本は赤道から北側の島々について統治する権利を得ます。日本で南洋諸島と呼ばれる上記の島々になります。山東半島に関する権益についてはこの領域が中華民国の領土だということもあって中華民国側から山東半島の権益は中華民国に返還するよう要求がありました。この要求はパリ講和会議で行われました。中華民国側の要求に対しアメリカは基本的に賛成の立場だったようです。しかし日本側は自国の軍隊がドイツ側と戦闘し山東半島地域を占領したということもあって山東半島の権益で中華民国と妥協することは拒否しイギリスやフランスも日本の考えに賛成します。こうして条約の中で山東半島の権益は日本に与えられると記されることとなりました。これが理由で世界大戦の後半で参戦し連合国側となっていた中華民国ですが、自国の要求が通らなかったのでヴェルサイユ条約の調印を拒否しました。

 

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今回はパリ講和会議に続きヴェルサイユ条約について一部取りあげてみました。パリ講和会議同様、戦争に勝った側はどのようなことを負けた側に対して行うものなのか関心があったのと、勝った側の中でのイザコザについても確認したかったといった理由でこの話題を調べることとしています。ドイツに科せられた内容をいくらか調べてみましたが戦争に負けるということは大変な損失となってしまうんですね。これは日本と戦争して敗れた清国の場合もそうでした。あの時も多額の賠償金を支払わなければならなくなりました。ただこの賠償金については上でも書いたように減免してもらえるというケースもあるんですね。要求した額がひどすぎたと連合国側が考え直した結果でしょうが、終戦直後にはそれくらいの要求をしないと戦勝国側の国民の感情が収まらないということでもあったんでしょうかね。戦争に勝っても大した戦果が無ければ日本の日比谷焼打ち事件のような大暴動が発生してしまうかもしれませんし。戦争の処理というのは難しいものです。イギリスがアメリカと結んだ仲裁裁判というようなもので全て解決して戦争をしなくてもよいようにする仕組みがあればいいんですが、国際社会は国際連盟を作ってもその後にまた大戦争を行うことになってしまいます。あまりに厳しい内容を連合国側がドイツに要求したことがドイツ国内でナチスの台頭に手を貸す結果となった、そんな指摘は多いようです。あまり一つの国を追い込み過ぎてはいけないというのは歴史の貴重な教訓なのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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