新婦人協会とは?治安警察法との関連や平塚さんについても

新婦人協会とは

 

新婦人協会(しんふじんきょうかい)とは西暦1920年(大正9年)に日本で女の人たちによって作られた団体です。この団体は女性が政治的な権利を得ることを目指すという目的で作られました。このような女性団体が日本に誕生したのはこの新婦人協会が初めてだったようです。当時の日本では女性が政治に関わる権利は必要ないと考えられており、国会議員を選ぶ選挙権も議員に立候補する権利、被選挙権も全く認められてはいませんでした。新婦人協会は女性文芸誌「青鞜(せいとう)」の発行に関わっていた平塚らいてうさんやそれまで労働団体、友愛会で活動していた市川房枝さんたちが中心となって設立されています。しかしその後一年ほどで設立の中心となった平塚さんも市川さんも協会とは距離を置いたようです。その後は坂本真琴(さかもとまこと)さんが中心となって協会が運営されていくこととなりました。しかしこの団体の中で意見対立が目立つようになったため、1922年に新婦人協会は解散することとなります。その後女性の政治的権利を要求する組織が1924年に婦人参政権獲得期成同盟会という名前で新たに立ち上げられることとなりました。

 

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治安警察法との関連

 

女性団体、新婦人協会が目標の一つにしていたのは上記の通り政治的な権利を得ることでした。具体的な目標には治安警察法第五条の内容変更がありました。この治安警察法第五条というのは政治団体に加入すること、政治集会への参加、集会の発起人になることを規制する内容を定めていました。政治団体というのは別に政党に限ったものではありません。政党も含まれはしますが、政治的な目的を実現するために結成された組織であれば政治団体ということになります。政党は政治権力を得ること(議員を輩出するとか、政権を担当するとかいうことですね)を目指す組織ですが政党ではない政治団体はそのようなことを狙いにしているわけではありません。治安警察法の第五条の第1項では職種や性別、年齢で政治団体に加入することを禁止しています。軍人さんやお巡りさん、神主さんやお坊さん、学校の先生、未成年の人たち、公民権(選挙権や被選挙権といった政治に参加する権利)をはく奪されたり停止されている人たち、そして女性、以上のような人たちは政治団体に加入することを禁じられていました。また第2項で女性や未成年者は政治集会に参加したり集会の発起人になることが禁じられていました。新婦人協会はこの治安警察法第五条の改正を目標としましたが政治団体に加入するという点での変更を実現することは出来ませんでした。しかし第2項の政治集会参加、集会の発起人になる権利については新婦人協会の国会に対する働きかけもあって1922年、法律の内容を変更させることに成功しています。女性が政治集会に参加したり、集会の発起人となることが出来るようになりました。発起人というのはこの場合で言えば集会を企画する人のことです。「こういう集会をやろう」と呼びかける人のことですね。

 

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平塚らいてうさんについて

 

平塚らいてうさんは本名、平塚明(ひらつかはる)というそうです。上でも書きましたが女性文芸誌として有名な「青鞜」を刊行するかたです。「らいてう」というのはペンネームとして使われ始めたようです。以前から女性にもさまざまな権利が認められるべきだという考えを持っていたようで新婦人協会のような団体を立ち上げることとなりました。ただ、上でも書いた通りすぐに団体の運営からは退いてその後は主に文筆活動をしていたようです。第二次世界大戦後は女性の権利獲得のための活動の他に反戦平和運動の場でも積極的に言論活動をされました。日米安全保障条約を廃棄しようとかベトナム戦争に反対です、といった論調だったようですね。現在も存在する女性団体、新日本婦人の会の結成にも参加しました。1971年に85歳で亡くなっています。

 

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今回は新婦人協会について取りあげてみました。女性参政権は第二次世界大戦で敗北するまで日本では認められることがありませんでしたが、大正時代に政治集会に参加する権利を得ることが出来るきっかけを作ったということで歴史的に重要な団体のようですね。教科書に載っている団体でもありましたが、あまり印象に残っていない事柄だったので今回確認してみようと思いました。治安警察法改正第五条の第1項を変更することは国会(貴族院)で否決されてしまったので、第2項の変更に的を絞り協会側は国会議員に熱心に働きかけたようです。1920年という時期、世界ではいくつかの国々で女性参政権が認められるようになっていました(イギリス、カナダ、ドイツなどなど)。こうした世の中の流れに影響を受けて有志の女性たちが協会を設立したということでしょうか。当時の日本の体制側は女性が政治に参加する権利を認めていませんでしたが、それは何故だったんでしょうね。女性に政治参加の権利を認めると、男性と同様の権利を認めることになっていくから社会の単位である家庭の仕組みが混乱すると思ったんでしょうか。当時の家庭の仕組み、家制度は男性に有利な仕組みになっていましたよね。もし戦争に負けるような大変動が無かった場合、日本の政治権力は女性に参政権を認めることとなったんでしょうかね。結果的に認めたとしても相当ずれ込むことになったかもしれません。スイスで女性参政権が男性と同様の内容で認められるようになったのは1991年だったのだそうです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

国民の政治に参加する権利が拡大したことと関連した記事「1925年成立の普通選挙法とは?一部内容や女性の選挙権も」はこちらです。

女性の過酷な労働環境に若干触れている記事「桂内閣の時代に定められた工場法とは?その背景についても」はこちらです。

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