第二次護憲運動とは?運動の原因や内閣の対応についても

第二次護憲運動とは

 

第二次護憲運動(だいにじごけんうんどう)とは西暦1924年(大正13年)に衆議院で議席を持っていた政党、革新倶楽部、憲政会、立憲政友会が起こした憲政擁護(憲政擁護というのは選挙権のある国民の投票によって選ばれた衆議院の政治勢力である政党の声を政治にもっと生かすべきだという主張です)のための運動です。第二次となっているのはかつて別の時期に行われた憲政擁護の運動と区別するためです。第一次護憲運動(第一次憲政擁護運動)は1912年に起きた政治運動です。1912年には立憲政友会の代表、西園寺公望さんが政権を担当していた時に陸軍の軍備増強要求を退けたことによって陸軍大臣が辞任し陸軍から新しい陸軍大臣となる人材の提供協力が行われなくなり、西園寺さんは内閣を組織することが出来なくなって退陣に追い込まれました。西園寺内閣が倒れた後に誕生したのは政党と関係のない桂太郎内閣です。政党の意見が聞き入れられることの少ない藩閥勢力による政治に反対する運動が桂太郎内閣の誕生によって起こることになりました。これが第一次護憲運動です。第二次護憲運動は第一次護憲運動と異なり多くの国民を巻き込んだ規模の大きい政治運動とはならなかったようですが、その後政党内閣誕生につながった政治運動ではあります。第二次護憲運動で中心となったのは革新倶楽部という政党では犬養毅さん、憲政会は総裁の加藤高明さん、立憲政友会は総裁の高橋是清さんです。

 

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第二次護憲運動が起きた原因は

 

第二次護憲運動が起きるまでにどのような内閣が出来ては退陣したのかというと、本格的な政党内閣、立憲政友会の原敬内閣、その次も政友会の高橋是清内閣でした。ここまでは政党内閣でしたがこれ以降は海軍の重鎮だった加藤友三郎さんが率いる加藤内閣となり、次の内閣も海軍の重鎮、山本権兵衛さんが率いる内閣でした。山本さんの内閣は虎の門事件発生の責任をとって退陣します。その次に誕生した内閣は清浦奎吾(きようらけいご)内閣でした。清浦さんは薩摩藩、長州藩出身の人ではありません。地方のお役人さんとして働き始めその後司法省の官僚となり活躍された官界で功績をあげた方です。その後貴族院の議員なり政治家として活動していました。政党との接点は無い方だったわけです。清浦内閣は大臣担当者が軍人と貴族院議員で占められていました。加藤内閣、山本内閣、清浦内閣と3つの内閣が政党の代表を総理大臣とするような政党内閣とは異なる性格の内閣だったことで第二次護憲運動が政党の間で強まっていきました。

 

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運動に対する清浦内閣の対応

 

清浦内閣は衆議院内の一部勢力と協力関係を作ります。清浦内閣を支持する勢力となったのは「政友本党 せいゆうほんとう」という政党でした。この政党は第二次護憲運動に参加している政党、立憲政友会から分裂してできた政党です。名前の初めに「政友」と名乗っているのはそのためです。この政友本党ですが、政友会から分裂して清浦内閣支持にまわったのは普通選挙制度に反対の立場だったからだそうです。清浦内閣も普通選挙制度に反対です。元々立憲政友会は普通選挙制度反対の立場だったんですが、高橋是清さん率いる立憲政友会が普通選挙制度賛成の立場に変わってしまったんですね。このことでそれに納得できない議員さんたちが立憲政友会から抜けてしまいました。政友本党は149人の議員からなる政党で、当時の衆議院では一番議席が多い政党でした。清浦内閣は1924年の1月に誕生した内閣ですが、5月には任期満了で衆議院議員総選挙が行われることとなっていました。4か月後にはどうせ任期満了の選挙となるところを清浦さんは護憲運動という名目で内閣を批判する動きに対抗するため内閣が誕生した1月に衆議院を解散してしまいました。ただし選挙が行われたのは解散して4か月経過した5月でした。関東大震災後の混乱による選挙権を持った人の名簿の問題で遅れてしまったのだそうです。第15回衆議院議員総選挙が行われ結果は護憲運動をおこなっていた政党、憲政会が議席を110から151に増やして勝利しました。政友本党は149から116に議席を減らす結果となります。内閣を支持していた政党が負けたこともあって、この選挙結果を受けて清浦さんの内閣は総辞職することとなりました。

 

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今回は第二次護憲運動を取りあげてみました。批判の矛先となった清浦奎吾内閣の何が問題で運動が強まったのか確認をしたかったというのが理由です。上でも書きましたが清浦さんの前の内閣(山本内閣)もその前の内閣(加藤内閣)も政党内閣ではありません。でもそういった内閣(加藤内閣、山本内閣)の時に護憲運動は起きなかったんですよね。加藤内閣の時は政党関係者が大臣になることはほとんどありませんでした。でも立憲政友会がこの内閣を支持する立場になっていたそうです。山本内閣では政党関係者の犬養毅さんが文部大臣、逓信大臣を務めましたが他は特に政党関係者はいませんでした。でも山本内閣は普通選挙制度の導入に賛成の立場だったようです。清浦さんの場合は内閣に政党関係者はおらず、普通選挙制度にも反対で、政友会や憲政党といった大きな政党が内閣を支持する立場ではなかったということで政党側が反発する条件がいくつか重なってしまったということのようですね。元々清浦さんも元老から首相を担当する適切な人ということで推薦されそれを引き受けた人なので、政党が批判すべきは清浦さん以上に「清浦さんを首相に」と推薦した元老なんじゃないのかなぁという気もしました。清浦さんの内閣は普通選挙制度に反対ということを除いて、どのような政策を進めようとしたのかよくわかりませんでした。超然主義といった点ばかり目立ちます。清浦内閣は、自分たちの内閣を批判する政治運動が強まると、衆議院内に自分たちの内閣を支持してくれる勢力を作ろうとして政友本党と協力しますし、自分たちの内閣と協力する衆議院の勢力が選挙民から支持されるか白黒つけるために選挙をしました。政治運動に対抗する手段というのは結局、民意を確認するということなんでしょうかね。それで負けたらすぐ退陣したわけですし、考えられる手をうって淡々と去っていった、そんな印象を受けました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

政党の声を政治に生かすよう求める動きに関連した記事「第一次護憲運動とは?中心人物や自由民権運動との違いについても」はこちらです。

本格的な政党内閣に関連した記事「原敬内閣とは?成立した経緯やこの内閣の政策についても」はこちらです。

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