1926年に行われた北伐とは?国民政府や張作霖についても

北伐とは

 

北伐(ほくばつ)という言葉は様々な時代で北部の武装勢力を制圧するという意味で使用されてきたようですが、今回扱う北伐は西暦1926年に行われた北伐です。北伐を行ったのは中国大陸の南側を支配していた国民政府と呼ばれる勢力でした。当時の中国大陸にはこの中国大陸の南側を支配している国民政府の他にも特定の地域を支配している武装勢力が複数存在していました。そういった中国大陸のある地域を支配していた武装勢力は軍閥(ぐんばつ)と呼ばれていました。中国大陸の中にそのような複数の軍閥が存在している状態は好ましくない、国民政府勢力がそのような軍閥を制圧して国を統一しようというのが北伐を行った理由になります。中国大陸の中部には呉佩孚(ごはいふ)という人がリーダーの勢力、中国大陸の大きな川、長江の下流、上海などの大陸沿岸には孫伝芳(そんでんほう)という人がリーダーの勢力があったそうです。現在の中国の首都である北京あたりから満州地域にかけて支配していたのは張作霖(ちょうさくりん)という人でした。国民政府側は10万人くらいの軍で北伐をおこない数か月で呉佩孚、孫伝芳といった人たちの支配地域を制圧することに成功しました。中国大陸の中央あたりまで進軍したことになります。しかし1927年に国民政府内部で争いが起こり北伐は一旦停滞します。内部での争いに決着がつき1928年から北伐は再開されました。北京に至るまでの間に存在していた軍閥(閻 錫山 えんしゃくざんなど)を国民政府側につかせることに成功し、大きな勢力であった張作霖も重要な都市、北京を手放し満州地方に撤退することになりました。張作霖が北京を撤退した後は国民政府側が北京を占領することで国民政府による北伐はひとまず完了することとなります。北京占領は1928年の6月でした。北伐の再開から2か月ほど後のことです。

 

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北伐をおこなった国民政府とは

 

1925年に中国大陸の南部、広州で一つのまとまった勢力が誕生しました。1919年に孫文という人によって中国国民党という政党が作られましたが、この政党が中心となって1925年に広州で広東国民政府が出来たと宣言します。この国民政府の軍が上で書いた通り1926年に北伐を開始します。北伐によってこの国民政府は北上し、その後中国大陸の中部にある大きな都市、武漢の名前をとって武漢国民政府と呼ばれるようになります。しかしこのあと国民政府内部で争いが起こりました。国民政府内で国民党に協力していた共産主義者を国民政府の有力者、蒋介石が排除します。1924年以降国民党は中国大陸を一つの勢力で統一することを目的に共産党と手を握ってきました。しかし国民政府内での共産主義者の影響力拡大を警戒した蒋介石が1927年の段階で協力関係を解消したそうです。共産主義勢力を排除した後、国民政府の拠点を長江下流の重要都市、南京として南京国民政府を作りました。1928年に北伐が再開される頃の国民政府はこの南京国民政府ということになります。

 

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張作霖について

 

北京地域、満州地域を支配していた張作霖という人は元々馬賊(ばぞく)として活動していた人でした。馬賊というのは移動手段として早い馬を利用する盗賊の集団、あるいは地域の自衛をするための集団のことです。その後清の軍隊に加入することになって軍組織の責任者に目をかけられ頭角を現し1919年頃には満州地域を勢力下に置く実力者となっていました。その後勢力は拡大し一時は長江の河口、上海や北部の中心都市北京まで至りましたが1928年には国民政府側に押されて行くこととなります。張作霖の勢力はまだ満州地域を制圧していなかったころから日本軍と協力関係にあったそうです。しかし国民政府軍の攻勢から逃れる1928年頃にはあまり関係が良くなかったということでしょうか、日本軍関係者が謀った(はかった)暗殺行為によって爆殺されています。

 

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今回は中国大陸の1920年代後半の出来事、北伐を取りあげてみました。日本の田中義一政権がおこなった事を記事にしようと思っているのですが、山東出兵を扱う前に、当時中国大陸はどのような状態であったのかまとめてみようと思いこの話題にしてみました。1926年から始まった北伐は2年で完了することになりますけれど、国民政府内の内部の争いが無ければもっと早く完了していた可能性もあるのではないかという気がしました。このような期間で中国大陸の相当な部分を勢力下に置くことが何故国民政府には可能だったのか、私個人にその理由を特定することなど出来ませんが、とにかく勢いがありました。進軍する過程で労働者や農民の協力を得られたとか、士気が高かったとか、共産党と手を結んでいたこともあってソビエト連邦から国民政府側にとてつもない額の資金援助があったからとか様々な指摘があるようです。どこの勢力、軍閥が国を統一するか中国大陸の権益を確保したい、守りたい関係国は大変気になっていたでしょうが、日本は張作霖に協力していました。でも張作霖が国を統一することは無かったんですね。以前西原借款(にしはらしゃっかん)を取りあげた時に知りましたが、日本が支援した段祺瑞さんも権力闘争に結果的に敗れました。日本が支援する権力者は成功しないことが多いですね。清王朝が亡んだことで様々な勢力が中国大陸に出来、争いで決着をつけて統一することになるわけですが、一つの国、王朝が亡んでしまうとこのような分裂と混乱につながることもあるわけです。穏便に世の中を治めようと思えば一つの国、王朝が亡びてしまうような事態は回避したほうが良いということになるのでしょう。清王朝に対して関係国が莫大な賠償金を要求しなければまた違った展開があったんでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

中華民国が分裂した状態と関連する記事「西原借款とは?この借款の目的や返済結果について」はこちらです。

北伐という軍事行動によって起きてしまう出来事「1927年の南京事件とは?この事件に関する日本側の対応も」はこちらです。

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