田中内閣の時に行われた山東出兵とは?出兵の目的についても

山東出兵とは

 

山東出兵(さんとうしゅっぺい)とは西暦1927年(昭和2年)以降、複数回にわたり中国大陸の山東省(さんとうしょう)へ軍隊を派遣した日本政府の行動のことです。当時の日本政府は田中義一(たなかぎいち)内閣が仕切っていました。山東省というのは中国大陸の大きな半島、山東半島(さんとうはんとう)が存在する一帯の行政区画です。山東半島は朝鮮半島近くに存在する半島、遼東半島(りょうとうはんとう)と向かい合った位置に存在しています。大きな川で有名な黄河がこの山東省の中を流れ海(渤海 ぼっかい)に出ています。日本政府は最初の山東出兵を1927年5月に行いました。その後同年8月に撤兵を決め、9月に撤兵を完了しました。しかし出兵はその後1928年の4月にも再度行われています。これが二回目の出兵、第二次出兵になります。そして日本政府は5月に、より多くの兵員を山東省に派遣する判断をしました。この5月に行われた派遣兵員数の追加を第三次出兵と数える場合もあるようです。1928年に山東省へ派遣された日本軍は1929年に撤退しています。

 

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山東出兵の目的は

 

複数回にわたる山東省への出兵の目的ですが、どの出兵についても当時の日本政府によると山東省で生活している日本人の保護と山東省にある日本国の権益を守ること、日本人の保護と重複しますが日本人が生活している地域の治安を維持すること、以上のようなことを目的に出兵すると国内外に表明しているようです。当時の山東省では1万6000人以上の日本人が生活していたそうです。山東省には大きな港湾である青島(ちんたお)や山東省の中心都市である済南(さいなん)といった都市が存在します。済南は山東省の内陸側にある都市です。山東省で生活する日本人の多くは青島で生活していたそうですが、済南でも2000人以上の日本人が暮らしていました。第一次世界大戦で日本はドイツ帝国と戦い、ドイツ帝国が清の時代から租借していた山東省の一部地域や鉄道などの権益を手に入れましたが、その大半はその後中華民国に返還されました。しかし一部の鉄道については日本側の融資したお金で整備され運営されており、鉄道付近にある鉱山は日本と中華民国の合弁で運営されていました。日本の権益は山東省内にいくらか残っていたわけです。日本側にとって関係している鉄道や鉱山は当然大切なものでした。こういった現地の日本人や日本の財産が中国大陸で発生していた内戦によって被害をこうむってしまう心配がこの時期あったわけです。

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当時中国大陸南部で大きな勢力となっていた国民政府と称する武装勢力が、国内を統一するという目的で中国大陸の中部、北部を支配していた武装勢力と戦っていました。その戦いが山東省にも波及し、内戦の混乱で治安が悪化し日本人や日本の財産が被害を受けてしまう危険性が高まっていました。第二次出兵以降の他国の反応は確認できませんでしたが、少なくとも一回目の出兵の時は中国大陸の武装勢力を除き他国から反対意見が出なかったようです。一回目の出兵の時は国民政府側が北部の武装勢力に敗れ撤退し山東省地域の状態も安定したので日本軍も一旦撤退しました。しかし1928年には再び国民政府側が北部の武装勢力と争い戦禍が山東省にも近づいたため再度日本軍を派兵することとなりました。1928年の5月には済南で10名以上の日本人が命を落とす残念な出来事が発生してしまい、これを理由にさらに派遣する日本軍の兵員を増やす結果となったようです。

 

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今回は1927年の山東出兵について取りあげてみました。当時日本の政治を任されていた田中義一内閣の外交姿勢が幣原喜重郎さんの協調外交と対比して強硬外交、積極外交と呼ばれました。その象徴となる出来事の一つがこの山東出兵だったようです。幣原さんのような方針をとらず、この山東出兵を何故行ったのか理由を確認してみたかったため調べてみました。この出兵については済南事件(さいなんじけん)という出来事も関係しているようですが、この出来事もかなり注目すべき出来事だと思うので別の記事で扱ってみようと考えています。調べている過程でこの出兵の目的についてはいくつかの指摘があることを知りました。上で書いたような日本人の保護や日本の財産を守ることが目的だったという指摘は当然ありましたが、他にも国民政府と称する武装勢力が北部の武装勢力と戦うにあたって日本政府が関係を強めていた北部側の武装勢力張作霖に協力するためという別の目的もあったという指摘です。つまり日本が国民政府側の邪魔をするために山東省に派兵したといいたいわけです。山東出兵を調べていて確かに国民政府側が占拠した拠点(済南城)を巡って日本側と戦った事実はある様なのですが、山東出兵自体が北部の武装勢力に積極的に肩入れするためだと判断する根拠とは何なのだろうと疑問に感じました。山東出兵以降北伐を継続する国民政府側に対し日本政府は特別妨害行為をしてはいないように思うのですが。幣原さんが外相をやっていた時代に中国大陸の混乱で被害に遭った日本人の人たちが多数出たこともあったためそのような被害を新たに出すわけにはいかないと田中内閣が考えるのも無理はないのかなという気がします。現地の治安が悪化する恐れがあって現地の警察があてにならず、中華民国もちゃんと統一されていない状態であれば武装勢力がちゃんと治安を守ってくれるのかというのは当然気になるところだと思います。山東半島に出兵した行為を批判する指摘もあるようですが、田中内閣は現地の日本人を守るため責任を果たしただけなのではないかな、という気がしました。意見の分かれるところなのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の出来事にも出てくる北伐についての記事「1926年に行われた北伐とは?国民政府や張作霖についても」はこちらです。

今回の出来事に関わってくる話「済南事件(さいなんじけん)とは?この事件の原因についても」はこちらです。

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