昭和の日本で起きた十月事件とは?橋本らの処分についても

1931年の日本で発生した十月事件とは

 

十月事件(じゅうがつじけん)とは西暦1931年(昭和6年)の10月に日本の一部の軍人で構成されていた桜会(さくらかい)という勢力が中心となって政権の奪取を企てた出来事のことです。同年9月に柳条湖事件をきっかけに始まった満州事変に刺激され計画されたと言われています。当時の日本政府、若槻礼次郎内閣は満州事変について不拡大方針をとるとしていたのですが軍部の一部勢力にとってこの方針は不本意であり、事件に関係した軍人たちは関東軍と行動を連携する政権が日本にとってより望ましいと考えたようです。政権奪取の計画というのは以下のようになっていました。桜会に所属する将校が各々の指揮する兵員を率いて陸軍の行政をおこなう陸軍省、陸軍の作戦・指示を出す機関である参謀本部を襲撃、占拠することで陸軍の中枢部を制御する。首相官邸を襲撃して若槻首相や他の大臣を処刑あるいは身柄拘束し政府の中枢を抑える。その後に天皇の重臣に圧力をかけて荒木貞夫陸軍中将を首相とする別の内閣を発足させるよう天皇に進言させ、この計画に中心となって関与した者たちが大臣職を担当する。結果的に軍部が中心となる政権、軍事政権を作り上げる。そのような内容でした。軍でこの計画を進めた中心人物は陸軍の橋本欣五郎(はしもときんごろう)中佐、長勇(ちょういさむ)少佐で民間人では大川周明(おおかわしゅうめい)、北一輝(きたいっき)、岩田愛之助(いわたあいのすけ)といったいわゆる右翼活動家や国家社会主義者も参加していました。赤松克麿(あかまつかつまろ)、亀井貫一郎(かめいかんいちろう)といった合法的社会主義政党、無産政党(むさんせいとう)である社会民衆党所属の一部国会議員も関与していたそうです。しかしこの計画は実行される前に情報が漏れたようで軍の警察機能を担当する憲兵隊がこの計画を立て実行しようとしていた橋本たち軍関係者を身柄拘束しました。つかまえたんですね。ということで武力による政権奪取、クーデターを未然に防ぐことが出来ました。

 

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橋本欣五郎ら軍人の処分

 

こういうことをおこなった場合、本来どういう罰が科せられることになるのでしょう。戦前は陸軍刑法や海軍刑法という法律がありました。陸軍刑法を見てみましたが、その中に反乱の罪というのがあります。十月事件の行為はそれにあたるんでしょうかね。ただ実行はしておらず計画し実行に移そうとしていた時点で捕まっています。計画に参加したり実際に反乱の為に兵を率いたりした場合は死刑、無期か5年以上の懲役あるいは禁固となるそうです。懲役刑ですと刑務所に入っている時に作業も強制されますが、禁固刑ですと作業の強制はありません。刑務所に入れられるだけです。そして捕まった橋本たちの実際の処分はというと・・・。橋本欣五郎は重謹慎(じゅうきんしん)、謹慎は一定期間出勤を停止し自宅からの外出や他人と会って話すことが禁じられるという処分で、それに加え謹慎なので給料の半分がカットされるということになるのだそうです。橋本の場合は20日間だったそうです。また長は10日間の重謹慎だったそうです。また、謹慎の後、橋本、長には転勤の命令が出ることとなりました。ということで陸軍刑法の内容と比べてみると実際に出された処分というのは軽いとしか思えない内容だったことがわかります。軽い罰則を科したとしても、5年以上の懲役刑か禁固刑が科せられてしかるべき事例だった。そう見るのが妥当なのではないでしょうか。

 

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今回は十月事件を取りあげてみました。柳条湖事件、満州事変の記事が中途半端な状態でこの出来事を取りあげていますが、この事件が発生した時期が柳条湖事件の翌月ですし、記事がこういう順番でもいいかなと思い、今回はこの件を調べています。この出来事は本当に物騒な話ですね。そもそもこの年の三月には橋本たちが別のクーデター事件を計画していて未遂に終わっています。三月事件のことですが、この時に軍がきちんと関係者を罰していたら十月事件は計画されなかったかもしれませんね。計画の内容を知ると当時の一部軍人たちが圧力をかければ天皇の重臣に要求を飲ませることが出来る、天皇にそれを了承させることが出来ると思いあがっていることがよくわかります。昭和天皇はこんなクーデター事件が実際に発生したら激怒されて自ら先頭に立って反乱勢力を討伐しようとされたのではないでしょうか。反乱を起こした軍人たちの要求を天皇が了承したらそれまでの秩序が崩壊することは目に見えています。橋本たちは昭和天皇を甘くというか軽く見ていたんでしょうかね。それは大川周明などの、本来なら天皇をこの上なく崇拝するはずの右翼関係者についてもあてはまることなのかもしれません。

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今回の記事では陸軍の刑法も見てみる機会を得ましたが実際の処罰内容とのギャップを強く感じる結果となりました。軽い処罰で済まされたとよく指摘されているようですが、これくらいひどい対応だったんですね。戦前の軍隊は厳しかったんですよと色々な話で聞く機会がありましたが、こういう点は甘すぎますね。柳条湖事件を計画した軍人の一人、石原莞爾(いしはらかんじ)は橋本たちの処罰を軽くするよう軍に働きかけたのだそうです。陸軍の正常な機能を維持するという点では決して良い影響を与えることにならなかったでしょう。陸軍の永田鉄山という人は厳罰に処すべきだと主張したそうです。そういった意見は通らないというのが現実でした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

現実になってしまった軍人の関与する要人襲撃事件「五・一五事件とは?犯人に対する刑罰や事件の影響についても」はこちらです。

要人に多数の犠牲者が出てしまった反乱事件の話「2・26事件とは?昭和天皇の対応や裁判の結果についても」はこちらです。

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