満州事変の途中で退陣した若槻内閣とその後発足した犬養内閣

満州事変

 

満州事変(まんしゅうじへん)は西暦1931年(昭和6年)の9月に発生した鉄道爆破事件である柳条湖事件をきっかけに発生した武力衝突です。日本国が派遣し中国大陸の関東州に駐留していた軍隊、関東軍(かんとうぐん)と満州地域を支配していた武装勢力、奉天軍閥(ほうてんぐんばつ)の間で衝突しています。関東州は日本が中華民国から租借、借りている遼東半島の先端地域や日本の会社、南満州鉄道株式会社の所属地を総称した呼び名です。柳条湖事件発生当初から関東軍は満州地域の大きな都市を占領していきました。満州事変は先に書いた通り1931年の9月から始まり、1933年の5月まで続くこととなります。1932年の内には満州の主要な都市を関東軍が占領することとなりました。

 

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独断越境を事後承認した若槻内閣のその後

 

柳条湖事件後に朝鮮半島に駐留していた日本軍を現地の司令官が関東軍の進軍を支援するために天皇や陸軍中央の許可を得ずに勝手に朝鮮半島から満州地域に動かすという大問題となる行為が行われましたが、現地の日本人保護のためやむを得ずその軍事行動を事後承認した若槻内閣。柳条湖事件発生後、陸軍大臣とも協議を行い、関東軍の行動を抑制し軍事行動する領域を満州地域全体に拡大させないという方針を内閣はとらせようとしました。しかし陸軍には事態を拡大させないという内閣の方針に不満を持っている勢力もあり、関東軍を指揮している現地の軍人たちも内閣の事態不拡大方針に反対でした。内閣が軍を制御しきれていない現状に苦慮した若槻首相は衆議院内のもう一つの大政党、政友会と協力し、国民の大多数が支持する政権を誕生させることによって軍の行動を抑えようと考えます。当時政権を持っていた大政党の民政党ともう一つの大政党、政友会が協力すると衆議院の大部分の議員が支持する政権となります。衆議院議員の大半が支持するということは選挙民の大多数が支持していると言えます。若槻内閣の内務大臣だった安達さんという人が政友会との連携のために動きました。しかし若槻内閣内の幣原喜重郎外務大臣、井上準之助大蔵大臣は外交方針が異なるとか金解禁政策に政友会が反対している等の理由で政友会と連携した政権の構想に強硬に反対しました。このような閣内からの協力拒否の強い意思表示が出たことで、実行したい政友会との連携を若槻首相は断念する結果となりました。政友会との話が進んでいた中で首相が連携構想をとりやめたため政友会と連携するべきだと考える安達内務大臣は態度を硬化させます。意見が異なる安達大臣に内務大臣を辞職してくれと若槻首相はお願いしますが首相の辞任要請に安達内相は応じず、閣内の意見が一致しない状態のままとなってしまいました。大日本帝国憲法下では首相が強制的に大臣を辞めさせることが出来ない仕組みとなっており、首相の辞職要請に対し、言われた大臣が首相に従わない場合は内閣が退陣するしかなかったのだそうです。こうして安達内務大臣の辞職拒否によって若槻内閣は退陣することとなりました。

 

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犬養内閣の発足

 

若槻内閣が退陣したことで適切な人物に首相を担当するよう天皇の重臣である元老は要請することになります。声がかかったのは若槻前首相の所属していた大政党の民政党の議員ではなく政友会の指導者だった犬養毅(いぬかいつよし)という人でした。当時彼は政友会のトップ、総裁となっていました。犬養さんは元老側からの要請を受け首相職を引き受けることとなります。1931年の12月のことです。犬養さんは大臣を担当する人物を決めていきますが、陸軍大臣にした人物は若槻内閣で陸軍大臣を担当した人物と異なっていました。若槻内閣では関東軍の事態不拡大に理解を示していた南次郎陸軍大将が陸軍大臣を担当していました。しかし犬養内閣では陸軍大臣になったのは南さんではなく荒木貞夫という当時陸軍中将だった人です。この人は関東軍の進軍を拡大させないという若槻前内閣の方針に反対する立場でした。陸軍が陸軍大臣となる人材を内閣に出さない場合、内閣は成立せず犬養内閣は退陣しなければなりません。荒木中将が犬養内閣のため陸軍大臣を引き受けてあげる代わりに犬養内閣は満州事変に関し軍と協力し積極的な解決をすることを約束しました。つまり満州事変の事態不拡大、関東軍の占領地域を満州全域に拡大させないという若槻内閣の選んだ方針を継続しないということです。関東軍にとって都合の良い政権が誕生したことになります。

 

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今回は満州事変中の政権交代について取りあげてみました。関東軍の動きを抑えたいと考える若槻首相がどんな行動をとるのかということと、それにもかかわらず退陣してしまった理由について調べてみたかったためこのようなテーマの記事にしてみました。若槻さんの政友会との連携構想に幣原外相と井上蔵相が協力したら満州事変はどうなっていたのでしょう。関東軍が満州北部まで占領することも無かったんでしょうか。軍を抑えることが出来るかどうかという緊迫した状態だったのに外交政策の意見や金解禁政策にこだわって政友会との連携に強く反対した幣原さんと井上さんは他に何か良い案でもあったんでしょうか。調べた範囲ではただ反対したという事実しか確認できませんでした。よくわからないですね。新しく政権を担当した犬養さんは柳条湖事件以降の関東軍の行動についてどう思っていたのでしょう。関東軍が独走することに危機感は無かったのでしょうか。外務省から情報も入るでしょうし、まさか一般国民同様中華民国の国民党勢力や張学良が率いる奉天軍閥が南満州鉄道株式会社の鉄道を爆破したなどと思っていたわけではないと思いますが。満州全土を占領したがっていた軍の一部勢力はこのような中央政界の変化に自信を深め、さらに政党政治を軽く見ることとなったんでしょうね。記事を作っていて大日本帝国憲法のもとでの首相は他の大臣が政策に関し異なった意見でかつ辞職しない場合は内閣総辞職して退陣しなければならないし、陸軍大臣や海軍大臣にはそれぞれの軍の中将以上の階級の軍人に引き受けてもらわなければならないという制約の中で内閣を組織しなければならなかったわけですし、軍という大変な実力組織を抑えなければならない割にはハンデが多いなぁと改めて感じました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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