金輸出再禁止とは?円安の経過や蔵相の他の政策についても

金輸出再禁止とは

 

金輸出再禁止(きんゆしゅつさいきんし)とは西暦1931年(昭和6年)12月に政友会を与党とする政権として誕生した犬養毅(いぬかいつよし)内閣がおこなった経済政策の一つです。民政党を与党とする浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣のもとで日本政府は金解禁、金輸出解禁とも呼ばれますが1930年1月に金を自由に輸出してよいという制度に変更しました。ちょうどその反対のことを犬養内閣はおこなった事になります。金の輸出を許可制とすることで実質的に自由な金(ゴールド)の輸出を禁止することとしたわけです。1930年の1月に金輸出解禁をしたあと日本国は金本位制、自国の通貨は金(ゴールド)と交換できるようにしますという制度を採用するようになりました。それによって日本の中央銀行が発行する1円は0.75gの金(ゴールド)と交換できるようになります。またこの制度を採用するということはアメリカドルと日本円の交換比率が大体1円=0.49875ドル=0.75gの金(ゴールド)に固定されることを意味します。(アメリカの通貨ドルも金との交換が可能な金本位制を採用していました。)この金輸出解禁と当時の経済状態(輸入超過など)によって日本国内から国外へ金(ゴールド)がどんどん流出してしまいました。また中央銀行は金(ゴールド)と交換できるだけの通貨しか発行できないため国内から金が流出してしまったことで発行できる通貨量を減らさなければならなくなり世の中に出回る通貨の量は減少し、このことが物の値段を下げることにつながりました。農産品価格の低下にもつながりました。1930年、1931年は日本の景気が著しく悪化します。このような経済の混乱に対処するため犬養内閣の高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣は内閣発足後ただちに金(ゴールド)の輸出を許可制に変更。実質的な金輸出再禁止を実施して、金本位制にも制約を加え実質的に金本位制から離脱することにしました。日本円を金(ゴールド)に交換しませんということにしたわけです。

 

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円安の経過

 

上でも書きましたように日本円とアメリカドルの交換比率は浜口内閣の方針で金本位制導入したことにより大体1円=0.49875ドルでほぼ固定されるようになりました。この制度を犬養内閣が1931年12月に中断したことによって円の価値は下落していきました。1931年の円の価値は金輸出再禁止後最も低下した時で1円=0.35ドルくらいになっています。1932年に入っても円安の傾向は続き、1932年に円の価値が最も下がった時で1円=0.20ドルくらいになりました。しかしその後円安傾向がそれ以上更新されることは無く1933年に円が最も安い状態となった時でも1円=0.20ドルくらいで、1934年には円が最も下がった状態でも1円=0.29ドルくらいに回復しています。金輸出再禁止後円安の急激な進行につながりはしましたが、その動きも1933年以降は徐々に落ち着いていったということになります。1934年以降は大体1円=0.27~0.30ドルくらいの間で推移したようです。(山澤逸平・山本有三「貿易と国際収支」東洋経済新報 1979年 257頁の資料を参考にしています。)

 

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大蔵大臣のおこなった他の政策

 

高橋蔵相は金輸出再禁止、金本位制離脱の他に中央銀行である日本銀行に公定歩合の引き下げを要請しました。公定歩合の引き下げによって借金の金利が下がることになります。さらに国の予算額を大幅に増やすことにしました。1931年度の国の予算は大体14億5000万円くらいだったようで1932年度の予算も15億弱でした。しかし犬養内閣が誕生した後に作られた予算では1933年度の予算は20億円にまで増えています。この大幅な予算の拡大に対応するため高橋蔵相は借金のための債券(国債)を発行しました。予算を増やした理由には軍事費を増大させることや農村の救済があったようです。その後中央銀行が発行できるお金の量を今までに比べ大幅に増やすことが出来るようにしています。大幅にお金を発行できるようになった日本銀行が国によって発行された国債を買い取り、それによって得たお金を政府は予算につぎこむことが出来るようになりました。

 

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今回は犬養毅内閣以降大蔵大臣を担当した高橋是清さんの経済政策を取りあげました。大変な不況状態を解決するために高橋さんはどのような手を使ったのかというのは興味深い話だと思いましたし、経済を安定させるという点から見ても貴重な歴史的事実なのではないでしょうか。金輸出再禁止と金本位制を止めたことで円の価値は下がり(円安になり)日本からの輸出額が増えていくことになりました。また国の予算額が増加したことも景気を良くする方向に作用したようです。1933年には恐慌が始まる前の生産量に回復したというわけですから高橋蔵相のとった政策による影響はやはり大きかったのでしょう。生産量が拡大するということはそれだけ人手が必要になりますし企業が採用する雇用者の数も自ずと増え、失業者を吸収していくことになるでしょう。大蔵大臣を誰が担当するかでこれくらい経済政策が異なるんですね。「政治なんて誰がやっても同じ」といった巷の批評を耳にしたことが以前あったような気はしますけれど、今回のテーマを調べていて必ずしもそうとは限らないなと感じました。今後日本経済を大不況に陥れる人物が総理大臣や財務大臣にならないよう願いますし、国民は政府が妙な経済政策を実施しないよう、ちゃんと監視するべきなんでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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