日本の国際連盟脱退とは?脱退した理由や首席全権についても

日本の国際連盟脱退とは

 

日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)とは西暦1933年(昭和8年)3月に日本国政府が国際連盟に対し日本国が連盟から脱退する、抜けることを伝えた出来事です。国際連盟は第一次世界大戦を経験した国際社会が1920年に設立した世界の平和維持を目的とする国際機関です。軍事大国のアメリカ合衆国は国内の連邦議会が連盟に加盟することに反対したため加入しませんでしたが他の大国、イギリス、フランス、イタリア、ドイツといった欧州の国々は加盟していました。日本も連盟発足当初から加盟していました。特に日本は国際連盟でイタリア、イギリス、フランスと並んで常任理事国という立場になっていました。常任理事国とは国際連盟内の決議機関の一つ、「理事会」において常に意思表示出来る立場にある国のことで、非常任理事国のような任期が制限されている流動的な立場の国よりも有利な立場でした。日本はそのような立場であったにもかかわらず連盟を抜けることになります。1933年の2月におこなわれた国際連盟の臨時の総会で日本の全権、松岡洋右(まつおかようすけ)が連盟と協力する努力の限界を述べ、総会を退席しました。その翌月に上記の通り日本政府が正式に連盟に脱退すると伝えます。ある国が実際に国際連盟から脱退となるまでは一定の期間が経過する必要があり、日本国が脱退した状態となったのは1935年になってからでした。

 

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日本が国際連盟を脱退した理由

 

1933年2月の連盟の臨時総会でいわゆるリットン調査団によって作成された報告書の中にある勧告案について議論されています。この臨時総会は連盟に参加している国々が勧告案についてそれぞれ意思表示をおこなう場でした。リットン調査団は中国大陸のいわゆる満州地域で発生していた満州事変や1932年に建国された満州国に関し調査する目的で国際連盟が派遣した集団です。この調査団は報告書を作成し、その中で満州国は自発的に誕生した国ではないと見なし、建国は日本の軍隊や日本国関係者の関与がなければ実現しなかったことを述べ、満州国を中華民国の主権下において、満州地域は自治政府という形で日本が関与する統治をおこなうのが望ましいという内容の勧告がされていました。このような勧告案が圧倒的多数で可決されることとなります。賛成42ヶ国、反対1ヵ国、棄権1ヵ国、投票不参加1ヵ国という結果でした。この勧告案は全会一致ではありませんでしたが、圧倒的多数の国が賛成したことで成立することとなります。総会で以上のような勧告案成立の後日本代表団は総会を退席することとなったため、日本が連盟を脱退した理由は勧告案が総会で通ったからと指摘する意見は多いようです。ただ一部では日本に対する国際連盟加盟国による経済制裁を回避するため外務省の意見が強まり日本政府が脱退を決断したという指摘もあるようです。満州国に関する勧告案が審議されていた後に日本の軍隊と満州地域を以前支配していた武装勢力、奉天軍閥(ほうてんぐんばつ)が満州国の熱河という地域で武力衝突した場合、新しい戦争を日本が起こしたと連盟は見なし、国際連盟のルールによって日本が国際連盟参加国から経済制裁をされてしまうおそれがありました。その指摘によるとそのようないきさつがあったので国際連盟のルールを当てはめられないようにする目的で日本政府が連盟脱退を決断したということだそうです。関東軍が熱河地域で奉天軍閥勢力を武力制圧するという行為をこの時期に日本の中央政府が抑えることは困難でした。

 

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日本の首席全権・松岡洋右

 

松岡洋右さんは戦前の日本で大変有名な政治家でした。この国際連盟脱退のあと、まだ先の話になりますが近衛文麿(このえふみまろ)内閣で外務大臣を担当することにもなります。若い頃アメリカに留学することになりオレゴン大学を卒業しています。その後日本の外交官試験に合格し外交官として活躍しました。40歳を過ぎ、外交官を辞めて南満州鉄道株式会社の理事におさまりその後会社の副総裁にまで出世しています。天下り人事なんでしょうか。1930年に会社を退職し山口県の選挙区から衆議院議員選挙に当時の大政党、政友会の候補として立候補し当選。国会議員として活動します。対英米協調路線、中華民国に極力干渉しないことを特徴とした民政党政権の幣原喜重郎外務大臣の外交姿勢を強く批判することで、当時松岡さんは大変目立ち、国民からの人気も非常にありました。1933年2月の国際連盟臨時総会に首席全権として松岡さんが選ばれた要因の一つは英語に関する高い能力だったようです。戦後松岡さんは東京裁判が行われた際A級戦犯容疑で起訴されましたが、病気で亡くなります。66歳でした。

 

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今回は日本国の国際連盟脱退について取りあげてみました。日本が国際社会で孤立するきっかけとなったという指摘が多い出来事ですし、どうしても脱退しなければいけない状況であったのか個人的に知りたい気持ちもあったので調べてみることにしました。当時の状況については意外に思うことがありました。必ずしも日本が国際連盟に留まるためにはリットン調査団の報告書にある勧告案を受け入れなければならなかったというわけではないようですね。受け入れないことによる罰則らしきものも特になく、引き続き常任理事国としてしらっと連盟に居続けることも可能だったんですよ、という話もあるそうです。だったらわざわざ脱退しなければいいのに、と個人的には思ってしまいます。ただ、上でも書いた通り経済制裁回避のため脱退せざるを得なかったというのが実際のところだったとしたらこの時期の関東軍の動きが悔やまれます。国際連盟でちょうど微妙な時期だからという理由で関東軍が奉天軍閥の挑発に対し防戦に徹して自重するという選択肢は無かったんでしょうかね。昭和天皇が軍に対し熱河での作戦を中止するよう働きかけを試みたそうですが、昭和天皇近くに仕える軍関係者から天皇が直接命令を出して作戦を中止するようなことになれば軍による事件を招く恐れがあると天皇に伝え、暗に天皇から命令する権限を奪うような態度に出て命令を思いとどまらせたなんていうことがあったんだそうです。統帥権という大権を持っているはずの天皇が命令を出せないというなら軍を抑えられる存在は無いようなものです。当時の日本では軍のコントロールが本当に難しかったんですね。あきらめずに連盟脱退を止めようとした日本政府関係者もきっといらっしゃったんでしょうけれど。本当に残念な出来事です。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

国際連盟を脱退するそもそものきっかけ、満州事変の発端の話「柳条湖事件とは?事件を起こした理由や石原莞爾についても」はこちらです。

日本側が満州地域の権益を心配していた話「満蒙の危機とは?日本の軍隊である関東軍の考えについても」はこちらです。

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