陸軍の派閥である皇道派とは?統制派や相沢事件についても

皇道派とは

 

皇道派(こうどうは)とは日本の陸軍に存在したグループ、派閥の一つです。天皇親政(てんのうしんせい)、つまり天皇ご自身が政治をおこなう体制にすることを望んでいるグループで、天皇の近くで仕える内大臣や元老といった天皇の重臣や財閥、政党勢力を腐敗した存在と見なし彼らを権力の座から排除するべきだと考えていたと言われることが多いです。多くの皇道派の青年将校たちが影響を受けたのは北一輝という一般的には国家社会主義者と見なされることの多い思想家でした。武力による政権の奪取をおこない、軍部が政治権力を独占するような軍事政権をうち立てることも肯定するような過激な勢力だったという指摘もあります。美濃部達吉さんという憲法学者が提唱していた日本という国を統治するのは国家そのものであり、天皇はその国家の最高機関であるといった天皇機関説(てんのうきかんせつ)を強硬に否定し、日本を統治するのは国家ではなく天皇であるという天皇主権説(てんのうしゅけんせつ)を支持していたという特徴もあるようです。代表的な人物として挙げられることが多いのは荒木貞夫(あらきさだお)陸軍大将や真崎甚三郎(まさきじんざぶろう)陸軍大将といった人たちのようです。以上が皇道派に関してよく言われている内容です。一方でそれとは異なる見方をする人もいるようで、真崎甚三郎という人はクーデター、武力による政権奪取を肯定するような人物ではないという指摘もあるようです。また皇道派は中国との戦争や国家社会主義に反対していたグループで一番彼らが警戒していたのはソビエト連邦だったという指摘もあるようです。ということで一般的に言われていることとは内容が異なる指摘もあり、このグループの実際の特徴について見解が定まっているとはなかなか言い難いようです。

 

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統制派とは

 

統制派(とうせいは)というのは日本の陸軍に存在していたグループの呼び名で皇道派に対抗するために出来ていったとも言われています。特徴としては皇道派のような違法な武力行使による政権奪取という手段をとらず、政界や財界といった既に力を持っている勢力との関係を強めることで軍部の影響力を強めて合法的に軍の意向が十分に反映した政権を作ろうと考えていたそうです。統制派の人たちは今後の他国との戦争は軍同士の戦いにとどまらず国家の総力を投じて戦わなければならなくなる総力戦の時代になると考えていました。そのような総力戦に対応するためには国の仕組みを総力戦に対応できるものに変えていかなければならず、その為には自分たち統制派が主張するような経済の統制もおこなう高度国防国家を創らなければならないという目標を持っていました。これが一般的な統制派に関する見方です。しかし彼ら統制派については一部でたびたびクーデターを計画していたのはむしろ統制派で中国との戦争にも積極的だったという指摘もあるようです。統制派の代表的な人物として名前の挙がることが多いのは永田鉄山(ながたてつざん)陸軍少将や東條英機(とうじょうひでき)陸軍大将といった人たちです。

 

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相沢事件とは

 

上で示した日本陸軍の二つのグループ、皇道派と統制派。この二つのグループの衝突と見られたのが相沢事件という西暦1935年(昭和10年)に起きた出来事でした。この相沢というのは陸軍の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐という人のことです。彼は皇道派側の人間と見られていたようです。相沢さんは皇道派の尊敬を集める陸軍の真崎甚三郎大将が理不尽なやり方で陸軍の教育総監(きょういくそうかん)という要職から引き摺り下ろされたと受け止め非常に強く憤っていたようです。真崎大将が教育総監を辞めることとなったのは統制派の中心人物、永田鉄山の策謀によるものだというまことしやかな噂が怪文書などで広まり、相沢中佐は永田少将を陸軍省の建物の内部で襲撃し殺害してしまいました。これが相沢事件です。相沢中佐は5・15事件を起こした軍人たちに対する処罰とは異なる厳罰、死刑を軍法会議(軍人に対し行われる裁判)で言い渡され処刑されることとなってしまいました。

 

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今回は陸軍の内部で形成されたグループ、皇道派、統制派などについて取りあげてみました。226事件を取り扱うことにもなるのでその事件で出てくることになる、皇道派青年将校というのはどういうことなのか確認しておきたく調べてみることとしました。ただ上でも書きましたように皇道派に関する一般的な定義のようなものはありますが、実情を説明しているのかどうか調べていてよくわからない部分もありました。結果的にあいまいな表現になってしまいまして申し訳ありません。ただそのような状態で一方的な定義だけ掲げておくのも問題かなと思い、敢えて複数の指摘をまとめてみました。特に真崎甚三郎大将に関する評価は人によって全く異なっているようです。この人物に関してはっきりとした判定をすることは現在の私には到底無理なので今のところは彼に関する評価は様々ですとだけ述べておきます。このテーマを調べていて一般的には皇道派の中心人物とされている真崎という人は一体どのような考えを持った人だったのかもっと知りたくなりました。もし一般的に伝えられている内容と実際の姿が異なっているなどということなら本当に驚きですけれど。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

皇道派の人たちがやったと言われる反乱事件「2・26事件とは?昭和天皇の対応や裁判の結果についても」はこちらです。

統制派と見られる一部軍人の振る舞いについて触れている話「1936年、広田内閣発足。吉田さんが関わる組閣問題も」はこちらです。

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