斎藤隆夫議員(民政党)の粛軍演説とは?演説後の反響も

斎藤隆夫議員(民政党)

 

斎藤隆夫議員は第一次世界大戦以前から衆議院議員として活動していた政党政治家です。弁護士でもあるかたです。所属していた政党は当時の大政党、立憲民政党でした。それ以前は憲政会、立憲同志会、立憲国民党などの政党の議員として活動しています。衆議院議員選挙に初当選したのは西暦1912年(明治45年、大正元年)です。当時41歳でした。斎藤議員が今回取りあげた演説をしたのは1936年ですが、その時までに内務政務次官や法制局長官を担当した経歴もありました。

 

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粛軍演説とは

 

粛軍演説(しゅくぐんえんぜつ)と呼ばれる斎藤議員の演説は1936年の5月に衆議院で質問演説としておこなわれました。粛軍というのは軍内部の規律を正し、不正を除去することを意味している言葉です。相当長い演説となりました。1時間以上続いたのだそうです。斎藤議員はこの演説をおこなった前年、1935年1月の国会でも質問演説をしており、その中で「国防の本義と其強化の提唱」という名の小冊子を陸軍省が出したことや予算内容に占める軍事費の割合が高く偏っていることに関し批判をしたという過去があります。今回の「粛軍演説」では当時の広田弘毅内閣に対し政治改革に関する質問を含め、ただ政治組織を変えればいいというものではないという意見を述べ「不自然な改革」に反対の意思を表し、教育制度に関する改革が不十分であることや当時いたずらに時間を費やしていた裁判制度に関する批判、他国との軍拡競争をおこなうことの批判、軍人の政治介入に関する批判、これまで軍人が関与した三月事件や十月事件などの政権奪取未遂事件や5・15事件に対する軍部の対応の甘さ、2・26事件に関する事実究明の不徹底に関する批判、軍の一部と連携し政治的野心を実現させようとする一部政党政治家に対する批判、広田内閣組閣にあたっての軍部の介入や言論の自由が侵害されている状況に関する批判を展開し、当時台頭していた共産主義やファシズムのような全体主義ではなく、日本が進むべき道は明治天皇の時代以来築き上げてきた立憲君主制の道であることを主張しました。

 

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演説後の反響

 

この演説に対し他の衆議院議員からは多くの拍手で迎えられ、斎藤議員は共感する多数の議員から議席に戻る途中握手を求められました。様々な新聞社が演説の翌日に斎藤議員の演説を一面で大きく取りあげ、その内容を高く評価しています。演説内容はその後一冊の本として出版されることにもなりました。新聞で取り上げられた後は日本全国だけではなく中華民国や満州国からも斎藤議員あてに一般の人々から激励、共感の手紙が送られてきたのだそうです。この粛軍演説によって斎藤議員が名演説家であるという一般国民からの評判をより一層高める結果となりました。

 

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今回は斎藤議員の粛軍演説について取りあげてみました。軍部(陸軍)の発言力が大変増していた時期に政党政治家がどのような主張をしていたのか、この粛軍演説を調べることで多少知ることが出来ることを期待して今回の記事のテーマにしてみました。演説内容が軍に対する批判一色ということでは全くありませんし、上でも書いたように教育改革が必要じゃないですか?とか一つの刑事事件にすごく時間をかけてしまっている当時の裁判の実態がひどいんじゃないですか?といった軍事以外の分野に関する言及もされています。演説内容を読んでいてもっともだなと感じたのは陸軍中堅幹部らが関わった三月事件、十月事件の時に、軍が関係者に対しておこなった処断の甘さと、その甘さがその後の5・15事件など要人襲撃事件を誘発したという批判の箇所でした。軍部にとっては耳の痛い批判だったのではないでしょうか。議会でこのような論陣を堂々と張ることが出来るというのはより良い世論形成にもつながるような気がします。当時の陸軍あたりが好むような言論ばかりであっては一般の人々の意見も偏ってしまうと思いますし。粛軍演説をおこなった当時、斎藤議員は議会で処罰されるようなことは全くありませんでした。しかしその後斎藤議員のような政党政治家に災難がふりかかってくるような時期が到来することになります。今後記事にすることが出来ればと思っています。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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