三月事件で名が出る宇垣一成はなぜ内閣を発足出来なかったか

広田内閣総辞職

 

西暦1937年(昭和12年)の1月に政権を担っていた広田内閣は解散総選挙をするかどうかを巡ってそれぞれの大臣の間で意見が統一されなかった、内閣不一致となったという理由で総辞職する結果となります。広田内閣が終了してしまいました。次の首相を誰にやってもらうか決めなければなりません。大日本帝国憲法下では天皇の重臣である元老が首相を担当するのに適切な人物に目星をつけて本人に引き受ける気があるかどうかを聞き担当する気があれば天皇に次の首相はこの人物にしてはいかがでしょうと進言し天皇が首相候補の人物に首相担当を直々に要請する命令を出すのがそれまで通例となっていました。広田内閣終了後も元老である西園寺公望(さいおんじきんもち)さんは次の首相になってもらいたい人物を決めます。その人物は宇垣一成(うがきかずしげ)という人でした。

 

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宇垣一成さんに天皇からの命令が出ます

 

宇垣さんは陸軍の軍人として出世した人でした。最終階級は陸軍大将です。これまで数々の内閣で陸軍大臣を担当してきた経歴があり、陸軍大臣を担当していた時代に内閣の方針に協力し陸軍内部の反発もあるなか陸軍の軍縮をおこなったということで有名でした。西園寺さんからも評価されていたそうです。昭和天皇に西園寺さんから次の首相として宇垣さんにやってもらうということでどうでしょうといった進言が出され、昭和天皇も宇垣さんに総理大臣を担当するよう命令を出しました。

 

陸軍の姿勢

 

昭和天皇の命令を受け止め様々な大臣職に関し引き受けてくれる人を宇垣さんは模索します。陸軍出身の宇垣さんですから陸軍内部にそれなりのつながりがあるため陸軍大臣も支障なく決まりそうなものですが、陸軍から陸軍大臣を担当する人材の提案が出ないという事態になります。本来は陸軍中央からこの人を陸軍大臣に提案しますと言ってもらえるはずなのですがそのような協力を当時の陸軍はおこないませんでした。宇垣さんも個別に交流のある陸軍の現役の将軍に大臣をやってくれと頼んだようですが、結局断られてしまいます。当時宇垣さんは予備役の陸軍大将でしたから広田内閣が1936年に軍部大臣現役武官制を復活させていなければ陸軍大臣を兼任して首相となる宇垣内閣を組織することが出来たはずですが、1937年当時は現役の中将か大将しか陸軍大臣を担当できない状態となっていたためそれも叶いませんでした。

 

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首相担当を断念

 

陸軍大臣をやってくれる人物がいなければ内閣を組織することが出来ません。首相を担当する気があった宇垣さんですが当時の制度の前ではどうにもならず、昭和天皇の御命令が直々にあったものの内閣を組織できないことが理由で首相担当をお断りしなければならなくなってしまいました。実は宇垣さんは陸軍が陸軍大臣を出してくれないというのなら、昭和天皇ご自身に陸軍に対し陸軍大臣を出すよう御命令を出していただきたいというお願いを申し上げようとしたのだそうです。しかし昭和天皇に直接お目にかかりその旨を申し上げることは出来ませんでした。当時の内大臣が宇垣さんの求めに対しそのような理由で昭和天皇に面談させることは出来ないという姿勢を崩さなかったことが理由です。このかたくなな対応が内大臣本人の意向なのか別の人物の意向によるものだったのかはよくわかりませんけれど。こうして昭和天皇から陸軍に「陸軍大臣を出すように」という御命令を出してもらう話は無くなりました。

 

なぜ陸軍は協力しなかったのか

 

陸軍が宇垣さんに陸軍大臣となる人材を提案しなかった理由については当時の陸軍中央の考えと宇垣さんの外交に関する考え方が異なっていたからだという指摘があるようです。宇垣さんは英国や米国、中華民国に対し日本が穏健な姿勢で臨んだほうがいいという考えの持ち主だったという見方があるようです。一方当時の陸軍中央は英国や米国との協調外交について否定的な姿勢でした。当時の陸軍がそのような考えであったため1936年の広田内閣組閣の際、英米協調派と見られていた吉田茂さんを外務大臣にしようとした広田首相の考えに寺内寿一陸軍大臣をはじめとする陸軍中央は強硬に反対しました。結果的に英米協調派ではない有田八郎さんが外務大臣になっています。宇垣さんが首相となることで内閣に対する当時の陸軍の発言力が低下してしまうことを警戒し陸軍が協力しなかったということのようです。

 

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今回は宇垣一成さんが内閣を組織できなかった出来事を取りあげてみました。陸軍の姿勢によって昭和天皇が御命令を出したにもかかわらず内閣が成立しなかったという非常に重大な出来事なので今回このようなテーマの記事にしています。宇垣さんは軍部の将校たちがたてた武力による政権奪取計画が未遂に終わったいわゆる1931年の三月事件(さんがつじけん)に関係したと言われていたようで、事件発生当時陸軍大臣をやっていましたがこの事件の後陸軍大臣を辞職しています。その事件に宇垣さんがどれほど関与していたのかはっきりしたことはわたしにはよくわかりません。当時三月事件を計画した将校たちは満州や内蒙古での日本の権益を確保することを重視していたでしょうから英米に対して協調するような政治を志向していたというような印象はありませんけれど、上でも書いたように宇垣さんは英国、米国、中華民国に対し穏健な姿勢をとるべきだという考えだったという指摘があります。そんなかみ合わない考えの持ち主同士で本当にクーデター計画を立てるものでしょうか。しっくりこない感じがしました。宇垣さんの内閣断念ということで軍部大臣現役武官制復活の影響が早くもこのようにはっきりと出る形になってしまいました。現役武官制復活を後悔しても今更遅いといったところでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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