トラウトマン工作とは?和平条件や参謀本部の姿勢についても

トラウトマン工作とは

 

トラウトマン工作(とらうとまんこうさく)とは日本と中華民国との間で戦われていた支那事変(日中戦争)を終わらせることを目的とするドイツを仲介とした日本と中華民国の間の交渉の一つです。交渉とは言っても日本と中華民国の外交関係者が直接協議するようなことは出来ていません。戦闘を終わらせるための条件の提示などがドイツの関係者を介し日本、中華民国双方におこなわれました。一時は日中双方が納得できる条件で戦闘を終結させる可能性もあったようですが結果的には和平交渉は打ち切りとなってしまいます。このドイツを介する和平のための模索は西暦1937年(昭和12年)11月から1938年の1月までの間おこなわれました。1938年1月に日本政府が打ち切っています。トラウトマン工作の「トラウトマン」というのは当時中華民国に駐在していたドイツの大使、Oskar Paul Trautmann オスカー・ポール・トラウトマンという人物の名前からきています。ドイツにとって極東地域でソビエト連邦と対峙するはずの日本が中華民国と戦っている状態というのは好ましくありませんでした。ドイツから見るとソビエト連邦は脅威であり、ソビエトが極東で周辺諸国と戦争する心配がない状態だと、いざという場合ヨーロッパで戦闘が発生した時にソビエトの軍事力がヨーロッパに集中してしまいドイツにとって不利といえます。ドイツからしてみるとソビエト連邦の軍事力をヨーロッパだけではなく極東地域にも分散させておきたいのです。日本と中華民国の戦闘を終了させ、日本にはソビエトとの戦闘にいつでも応じられるような体制を作っておいてもらっている方がドイツにとっては都合がいいと。またドイツは中華民国国民政府と良好な関係を持っていました。そのような政権が日本との戦闘によって倒されてしまうのはドイツの利益に反するので早々に戦闘を終わらせて国民政府が倒れてしまうことを防ぎたいと考えていました。ドイツが仲介を引き受けた背景にはこのような理由もあったようです。

 

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和平条件

 

1937年11月に入った頃日本政府は戦闘を終了させるための条件を出しています。全部で7項目となる内容でした。内蒙古地域に自治政府を作ることや上海の非武装地域を拡大すること、戦闘がすぐ終了する場合には中国大陸の華北地域の行政権を国民政府が持つことを認めた上で満州の国境から北京、天津までの間に非武装地帯を設けることなどが条件とされていました。しかし華北地域の行政権についてはすぐに戦闘が終了しない場合には国民政府とは別の行政機関を作らなければならないとなっており、すぐに戦闘を終了させることが出来るかどうかで華北地域を国民政府の支配下におけるかどうか違ってくるような内容にもなっていました。この条件提示はまだ南京攻略戦が始まっていない、第二次上海事変が中華民国軍の退却によってようやく収束してくる前の時点でした。この日本側の条件に対する中華民国のリーダー、蒋介石の反応は遅く、後にこの条件で和平に応じてもよいといった肯定的な反応もあったようですがその後日本側が提示する条件が変化しました。南京攻略戦が行われたためです。日本軍側の犠牲も第二次上海事変での戦闘に加えて南京攻略戦が終わるまでの間に膨れ上がり、戦闘終了のための条件には賠償も付け加えなければならないと日本側は判断したようです。また華北地域に国民政府とは別の広範な権限を持った機構を作ることも条件とし、前の条件にあった華北地域の行政権を国民政府が持つことを認めるという内容と大きく変化してしまいます。中華民国国民政府側は変化した条件を受け入れることはありませんでした。

 

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参謀本部の姿勢

 

日本側の条件が変化した後中華民国側から条件受け入れの反応は無く日本政府は1938年1月中旬に交渉の打ち切りを決定します。しかし日本陸軍の参謀本部は中華民国との和平交渉の継続を主張したそうです。参謀本部というのは陸軍の軍令(ぐんれい)、陸軍の作戦行動に関する仕事を担当する部署のことです。一方軍政(ぐんせい)、陸軍組織を管理する仕事を担当していたのは陸軍省でした。この陸軍の軍令組織である参謀本部は日本政府が和平のための交渉打ち切りを決定することに強硬に反対したようです。日本政府が交渉を打ち切る以前には参謀本部が昭和天皇の臨席される国策決定のための会議、御前会議を開くことを要請したそうです。しかし交渉継続という結論にはなりませんでした。参謀本部はさらに昭和天皇に当時の日本政府の交渉打ち切り方針を変更するようお願いしようともしたそうですが、結局直々に昭和天皇にお願い申し上げる機会を得ることは叶わなかったようです。当時の参謀本部のトップ、参謀総長は皇族の方で、実質的な責任者は参謀次長でした。この時の参謀次長は多田駿(ただはやお)という当時陸軍中将だったかたです。

 

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今回はトラウトマン工作について取りあげてみました。長引く戦いとなってしまう日中間の戦闘を早期に終了させる可能性が期待された試みなわけですし、これが上手くいけば日本の対米開戦も無かったかもしれませんから大変重要な出来事と見ることが出来るのではないでしょうか。記事を作っていて南京攻略戦がおこなわれていなければ和平がもしかしたら成立したのかもしれないなと感じました。しかしそう思った一方、和平が成立したとしても廊坊事件(ろうぼうじけん)や広安門事件(こうあんもんじけん)などのように規模は小さいものの中華民国軍からの一方的な攻撃が一切無くなったかといえばそうはならなかったんじゃないのかなという気もします。中華民国の軍を国民政府中央はそこまでしっかりコントロール出来ていなかったのではないでしょうか。例え非武装地帯を設けても中華民国の軍隊に正式に所属していないような立場の武装組織が何らかの武力行使をおこなってくるようなそんな嫌がらせが延々と続く展開になったんじゃないのかな、などと勝手な想像をしてしまいました。もちろん和平が成立したほうがいいに決まっています。戦闘の早期終結を実現するために交渉継続を主張した陸軍参謀本部の主張はもっともだと思いました。相手の反応がこちらの期待に沿ったものではないとしても別に交渉を打ち切る必要はないんじゃないでしょうか。相手が交渉を打ち切ってしまえば仕方がありませんけれど。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

対米戦争以前のアメリカとの融和を図った動きに触れている話「野村大使とハル長官による1941年4月の日米交渉について」はこちらです。

中華民国蒋介石政権との戦闘が本格化した出来事に触れている話「第二次上海事変とは?大山中尉やドイツの関わりについても」はこちらです。

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