池田屋事件とは?発生した場所や池田屋跡地の現在についても

池田屋事件が発生した場所は?

 

池田屋事件(いけだやじけん)は名前からもわかる通り、旅館の池田屋で発生した事件です。存在した場所ですが、住所は京都府京都市中京区三条通河原町東入となっているそうです。住所はそうなっているものの現在池田屋という旅館は存在していません。跡地の住所です。

 

池田屋の跡地は現在どうなっているでしょうか

 

旅館池田屋は事件発生後に営業が許されなくなりました。その後、別の人が池田屋のあった土地で別の名前で長らく旅館業を営まれたそうです。それからその旅館も廃業し、現在に至るまで様々な事業者が池田屋の跡地の所有者となっていったようです。

現在は跡地に飲食店が建てられ営業を続けています。また跡地には池田屋事件が発生した場所であることを示すための碑が建てられているそうです。

 

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池田屋事件とは何なのでしょうか

 

朝廷中心の政治を行い、武力を使って日本から外国勢力を追い払うことを理想としていた攘夷派の人たち。彼らが集まって会合を開いていた場所の一つに旅館の「池田屋」がありました。

以前から攘夷派の人たちが京都で事件をたびたび起こし治安が悪化していたため、京都の治安を守る役割を幕府から任されていた京都守護職の松平容保(かたもり)公は治安を守るための組織を作り京都を安全な街にしようとしました。その治安を守るための組織の一つに「新撰組(しんせんぐみ)」という組織がありました。

新選組は普段から京都の街をパトロールしたり攘夷派の人たちが事件を起こそうとしていないか監視網を築いて見張っていました。そのように普段から活動していたのですが、ある時新選組は近日中に攘夷派の人たちが徒党を組んで大規模な事件を起こそうとしているという情報を得ました。

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新選組は攘夷派の人たちが会合に使っていると言われていた場所である旅館の「池田屋」に突入し攘夷派勢力と戦闘する結果となりました。その場にいた攘夷派の人たちは相当数捕まえられたり死亡しましたが新撰組側にも犠牲者が出ています。この新選組の活動によって京都守護職の容保公は攘夷派の人たちが起こそうとしていた何らかの計画を未然に防ぐことが出来ました。以上が池田屋事件の大まかな内容となります。この事件は西暦1864年(元治元年)の7月(旧暦で6月)に発生しました。

攘夷派の人たちが一体何を計画していたのか断定することは難しいようです。一説によると松平容保公を倒し、京都御所を襲い孝明天皇の身柄を奪い長州藩に連れて行ってしまうという計画だったそうですが、その説については確証が無いとも言われています。

攘夷派のリーダー格の人たちがこの事件で多数命を落としたそうで、攘夷派にとってはかなりの痛手でした。多数の仲間を失った長州藩の人たちはこの出来事で非常に刺激され、復讐の念を持って多数の長州藩の兵を京都に派遣してしまうことになります。歴史上有名な「蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)」はこのような状況で発生することになります。

 

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幕末のドラマでも池田屋という名前は出てきますし聞いた記憶もあるのですが、池田屋だか寺田屋だかよくわからないというのが私個人としては正直なところでした。この池田屋事件という出来事は禁門の変、別名蛤御門の変と大変つながりが強い話だそうなので今回取りあげてみました。

当時の攘夷派の人たちは集まって会議を開く場所としてよく旅館を使っていたということなのでしょうか。以前取りあげた寺田屋事件の「寺田屋」も旅館ですし。

長州藩の人たちは仲間を失い非常に悔しい思いをしたのでしょうが、京都で犯罪を取り締まる立場としては犯行計画を立てられて実行に移されたらまずいですから京都守護職や新選組の人たちはお役目としてそれを防がなければなりませんよね。仮に一説の通りに当時の天皇を連れ去られてしまっては大変なことになりますから。

過激なことを実行したり計画するようなことをしていると今回の事件のように大変なリスクを背負うことになる、ということは当然と言えば当然なのでしょうが改めて思い知らされた気がしました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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