日本軍による北部仏印進駐とは?進駐した理由についても

北部仏印進駐とは

 

北部仏印進駐(ほくぶふついんしんちゅう)とは西暦1940年(昭和15年)の9月、日本の軍隊が東南アジアにある大きな半島、インドシナ半島のフランスが支配していた地域の一部にフランス政府の合意のもと進軍し駐留したという出来事を意味しています。この北部仏印というのは当時フランスが植民地にしていた地域のどの辺りかというとトンキンと呼ばれる現在のベトナム社会主義共和国の北部の地域です。インドシナ半島のフランス領はいくつかの地域に区分されていました。今のベトナム北部であるトンキン、今のベトナム中部となる安南(あんなん)、今のベトナム南部になるコーチシナ、今のカンボジアにあたるカンボジア王国、今のラオスにあたるルアンパバーン、チャンパーサックといった地域などです。トンキン地域はフランスがインドシナ半島で領有していた全地域の中で見るとそれほど広い領域ではありません。この1940年の9月という時点では第二次世界大戦の最中であり、ドイツが欧州でフランスを占領下に置いていた時期になります。

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ドイツの占領下でフィリップ・ペタンというフランスの軍人が率いる政権はヴィシーという都市を首都にしてフランスを統治していました。日本はその政権と協議し協定を結びます。その協定は松岡・アンリ協定と言うそうですが、フランスの領土であることを認めた上で支那事変が解決するまでの間という期限を設け、駐留する場所も限定し日本軍が決められた人数の範囲内の兵員(6000人以下なのだそうです)で駐留するという内容の協定でした。ただ日本軍が駐留する前にこの協定に反発した一部のフランス軍部隊が日本軍の進駐を認めようとせず、結果的に日本軍と短期間戦闘をした事実はあります。ただそのフランス軍部隊の行動は当時のフランス政府の意向に従った軍事行為ということではありませんでした。武力衝突がこのように全くなかったわけではないのですが、日仏両政府とも合意の上でおこなわれたことですから、無理やり日本軍が武力侵攻したような出来事とは異なるのでフランス政府から反発はありませんでしたが、アメリカ政府からは反発がありました。(アメリカ政府の意向に反する動きだったから反発したということで日本の行為が国際的に見て明確な違反だったわけでもなんでもないのですが。)日本を平沼内閣が率いていた1939年に日米通商航海条約を廃棄通告したアメリカはこの日本軍北部仏印進駐のあと、この日仏間の合意を認めないという立場を示し、くず鉄など鉄関連物資をアメリカから日本に輸出することを禁止するという一層厳しい態度に出ました。

 

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進駐した理由

 

日本側としては中華民国国民政府と戦闘を続けている中、他国とできれば摩擦を強めたくはないはずです。フランスにとってはおそらく不満であろう北部進駐をわざわざ日本軍がおこなったのは中華民国国民政府との戦闘を有利な状況に変化させたいと考えたからでした。本来の中華民国の首都南京を日本が陥落させても国民政府は臨時の首都を大陸の内陸部に移し日本に対し降伏したり、和平に応じる態度を示そうとしません。なぜ国民政府がそのように抵抗し続けられたのかというと英国、米国、ソビエト連邦といった力のある国が国民政府を支援していたからです。こういった国々からの国民政府への支援を断つことが出来れば国民政府も窮地に陥り日本との和平に応じる可能性が高くなります。当時国民政府への物資供給をおこなっていた経路は複数あったようですが、その中の一つがこれまで説明してきたインドシナ半島北部を経由する支援でした。この経由での支援は国民政府への支援のかなりの割合を占めていたようなので、日本軍が北部仏印に進駐し国民政府に物資などを支援させないよう目を光らせることは国民政府に経済的な打撃を加える有効な戦略と見られました。

 

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今回は北部仏印進駐について取りあげてみました。第二次近衛内閣の期間内で起きたことの中で重要なものの一つと言えるでしょうし、この行動の理由には支那事変があったことやこの行動よって引き起こされる米国の報復も軽視できないと思い記事にしてみようと思いました。この行為が侵略かどうかと言われたら進駐する地域を統治するフランスのヴィシー政権が合意しているのですから侵略ではないだろうと感じます。ただこの日本側の行動によってイギリスやアメリカの態度が硬化することは十分想定できることだったんじゃないだろうかという気もします。アメリカなどが支援したがっている国民政府への補給経路を一部邪魔することになるのですから、それはアメリカが嫌がるでしょう。国民政府との戦闘を終わらせるために日本はもがき、事態がさらに複雑になってしまっているわけですが、中華民国と戦っている時にアメリカとの関係を更に悪化させている場合じゃないだろうという気はします。それとも他国との関係を決定的に悪化させることなく支那事変を収束させることなど無理だったのでしょうか。中華民国領内からの一方的な日本軍の撤退、日本国民の引き揚げをおこなって例えば満州国から華北に出ないようにした場合、米国や英国の態度は軟化したのかどうか。アメリカによる制裁によって戦闘継続に必要な物資が日本で欠乏してしまったのですから、アメリカとの関係を改善出来る程度にまで一旦日本側は譲歩するというのが合理的な対応という気もしますが。そんなことは到底無理な話だったのでしょうかね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

中華民国との戦闘に関して触れている話「南京攻略戦とは?攻撃した理由や国民政府の対応についても」はこちらです。

中華民国との大規模な戦闘に繋がった出来事に関する話「第二次上海事変とは?大山中尉やドイツの関わりについても」はこちらです。

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