北部仏印進駐の翌年に行った南部仏印進駐とは?進駐の理由も

南部仏印進駐とは

 

南部仏印進駐(なんぶふついんしんちゅう)とは西暦1941年(昭和16年)7月に当時フランスの領土であったインドシナ半島の一部地域に日本軍が入り駐留したという出来事です。インドシナ半島には現在ベトナムやカンボジア、ラオス、タイ、ミャンマーといった国々があります。フランスは現在ベトナム、ラオス、カンボジアとなっている領域をかつては自国領としていました。南部仏印進駐の「南部仏印」というのは現在のベトナム南部やカンボジア、ラオスといったフランス領インドシナのかなりの割合の地域のことを指しているようです。1941年の6月から日本の軍部内で南部仏印に進駐するべきだという意見が強まり7月上旬に行われた昭和天皇も参加される会議、御前会議でも南方進出の方針が確認され南部仏印進駐の話が具体的に進められることとなっていきます。

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その後日本政府は当時フランスを統治していた政権に南部仏印に日本軍が進駐することを許可してくれるよう要請しました。結局フランス政府は日本側の要求を許可することとなります。その際フランスはフランス領インドシナでのフランスの主権を尊重するよう日本側に求めました。日本軍が南部仏印への進駐を実施したのは1941年7月28日です。フランス政府の了解を得て行われたものの、日本側のこの行動に対しアメリカとイギリスは事前に協議をおこなっており、実際に進駐した場合は両国が経済制裁することを決めていました。進駐がおこなわれた後石油の輸出を禁止する制裁や日本資産の凍結や貿易関係の条約の廃棄など国によって内容が異なりますが英米の事前協議の通り制裁が実行されました。この南部仏印進駐の前年1940年9月に日本軍は北部仏印進駐を実施しています。中華民国国民政府へのアメリカやイギリスによる支援を断ち切ることなどが目的だったようですが、この日本軍による仏領インドシナ北部への駐留も前もってフランス政府の了解を得て行われていた行為です。ただ日独伊三国同盟が結ばれた時期と重なっていることもあり、アメリカからは制裁がおこなわれました。この時はアメリカから日本へ屑鉄を輸出することが禁止されています。

 

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南部仏印進駐を実施した理由

 

日本が南部仏印進駐をおこなった時にフランス政府と条約を結んでいますが仏領インドシナの共同防衛のため軍事的な協力をすることがうたわれています。ということでこの進駐の主な目的というのは仏領インドシナを日本軍とフランス軍が協力して外敵から防衛するということになります。フランス領インドシナを日本とフランスの軍隊が共同で防衛する目的に関して日本がアメリカ政府に説明をした際、支那事変の解決を促進することも挙げていましたので、それも理由の一つと言えます。また、当時日本はアメリカなどから様々な物資の輸出を禁止されていました。日本独自でまかなうことの出来ない物資を他国から輸入することが出来なければ中華民国国民政府との戦闘を継続できず日本にとって不利な情勢になってしまいます。しかしアメリカは日本が必要な物資を輸出再開してくれる様子もありません。東南アジアに植民地として広範囲の自国領土を持っているオランダも日本との協議をおこないました。オランダとの協議は日蘭会商(にちらんかいしょう)などと言われ当時の日本は必要な物資をオランダが輸出してくれるのではないかと大変期待していたようですけれど、オランダはアメリカやイギリスから圧力をかけられ日本に協力しない方針となり日本とオランダの協議は1941年の6月の時点で日本の思うように進まないままとなってしまいました。東南アジアのオランダ領から必要な物資を輸出してもらえない情勢がはっきりとした時点で日本の軍部は南方に進出し日本にとって必要な物資を他国の好意に頼らず自力で確保するしかないと考えるようになります。ということで日本に必要な物資(東南アジア地域にはたくさんあったそうです)を確保しなければならないということと日本とオランダとの間の協議が日本の望むようにはうまくいかなかったことも南部仏印進駐に関係しているようです。また日本に必要な物資を東南アジアで確保することとなるとアメリカやイギリスとの対立が強まり日本はその二カ国と戦争しなければならなくなるかもしれません。その場合仏領インドシナの南部はアメリカやイギリスとの戦争を想定すると戦略的に非常に重要な地域なのだそうです。アメリカやイギリスとの戦いを日本側に有利にするためという理由も南部仏印進駐にはあったようです。

 

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今回は南部仏印進駐について取りあげてみました。この出来事は後から振り返ると日本にとって致命的な制裁をアメリカが実施することと直結してきますし、それが対米開戦につながることになるので非常に重要な話だと思い調べてみることにしました。日米交渉に従事していた当時駐米日本大使の野村吉三郎さん(海軍出身の方です)はアメリカ高官からの警告もあり南部仏印進駐をおこなうとアメリカは相当なことを日本に対しおこなうと予測し日本政府に対し注意喚起していたようですが、野村さんの指摘があったにもかかわらず日本政府は方針を変更しようとしなかったんですよね。オランダとの交渉がうまくいかないことがはっきりした時点でアメリカ、イギリスと妥協し体勢を立て直すしか道は無かったのではないかと思うのですが現実はそうなりません。南部仏印進駐後アメリカが制裁を追加し強硬な姿勢を示したことは日本軍部関係者の想定外だったなどという指摘もあるようです。進駐する以前にアメリカから野村さんが報告していた情報は重視されなかったということなんでしょうけれど、この時点で日本の情勢判断は相当甘かったということですよね。自分たち(日本政府)の判断は外れたということを、ありのまま認めて対応を修正させることが出来ればよかったのでしょうけれど。第3次近衛内閣はそうしませんでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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