インパール作戦を生き残り帰還したといわれる日本兵の人数は

インパール作戦を生き残り帰還したといわれる人数は

 

西暦1944年(昭和19年)に東南アジアのビルマとイギリス領であった南アジアのインドとの国境付近でおこなわれた日本軍や有志のインドの人たちの武装組織、インド国民軍の軍事行動であるインパール作戦。この作戦に参加して生き残り、帰還することの出来た日本兵の人数について、正確なところは明らかではないという意見も出ているようですが、それでも約1万2000人の方々が帰還されたという指摘はあるようです。ではこのインパール作戦に参加した日本兵の人数はどれくらいだったかというと、9万人弱、約8万5000人~8万6000人だったという指摘が多いです。10万人が参加したという意見もあるようではありますが。そういった人数の内の1万2000人ですので、参加人数が約8万6000人であれば14%位の割合しか生き残ることが出来なかったことになりますし、10万人が参加した場合ですと12%の割合の方々しか生き残ることが出来なかったということになります。いずれにせよ多数の方々がこの戦闘で命を落とされたことは間違いありません。この件を調べている中で戦死者、行方不明者そして戦病死、戦闘に参加している途中で病にかかり亡くなられた方の人数が合計で約3万人だった、といった数字も目にすることがありましたが、それならば約5万人~7万人の方は命を落とさずに済んだということになります。しかし12000人しか帰還できなかったということを考えますと戦闘で負傷され、その後亡くなられた方々、戦闘後に病にかかり亡くなられた方々が続出したということなのかもしれません。

 

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多くの日本兵の方々が命を落とされたのは

 

たくさんの日本兵の方々が亡くなられたのは敵側のイギリス兵やイギリス領であったインドでイギリス側として戦っていたインドの兵員との戦闘によって亡くなられた事例も当然多数あったのでしょうが、その他にも日本軍の補給が実施されないことによる飢餓、飢えを理由にした死亡例や戦闘のおこなわれた地域周辺で流行する感染症(マラリアなど)にかかり死亡する事例も多かったそうです。懸命に相手と戦う日本兵や有志で日本側について戦ってくれたインド人の方々に対する十分な補給、武器、弾薬、食料、医薬品といった戦うために不可欠な物資の供給が戦闘している現地に届けられなかったことや、形勢が非常に不利な状況だということを理由にすみやかな撤退の命令が日本側の指揮官から本来ならば出されてしかるべきところ、そういった指示が出されなかったということのようです。日本軍の物資のある場所から、戦闘がおこなわれている場所に行くまでの間には滞りなく物を運ぶことが出来るような道路設備は無く、難所の多い地形だったそうで、効率的に地上経路で物資を輸送するのは無理だったという指摘が多いです。それに対し相手側は航空機を利用して戦闘がおこなわれている場所に効率よく物資を運ぶことが出来たそうです。ビルマ、インド国境地域は当時日本側に制空権は無く、日本軍が飛行機を使って空を安全に移動することの出来る状態ではありませんでした。もし飛行機で輸送しようとしたら相手に見つかり撃墜されてしまうおそれが高かったようです。戦闘がおこなわれている地域に物資を輸送したくても空は駄目、地上も難しいということで、結局補給がうまくおこなわれない中、日本兵は現地で戦わなければなりませんでした。本当に絶望的な苦しい中での戦いだったようです。

 

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そもそもこの作戦が実行された理由は

 

インパール作戦がおこなわれたのはインドのインパールに存在するイギリス側の基地から中華民国を支援するためのルートが出来ていたためだったようです。中華民国に対するアメリカやイギリスの支援をおこなえないようにして中華民国の蒋介石政権を孤立させ日本と蒋介石政権との間の戦闘を日本に有利な条件で終了させることが日本にとっての目標でした。その為に蒋介石政権を支援する拠点となっていたビルマを当時の日本は支配下に置いてイギリス、アメリカの蒋介石側への支援を妨害していたわけですから、インドの基地を拠点に蒋介石政権を支援する動きがあれば、それは日本としては阻止したいと考えます。そういった理由があってインパールにあるイギリスの基地を攻撃するべきだとビルマに駐留していた日本軍の上層部は考えたようです。ただしこの作戦については補給が出来ないから実施するべきではないという意見が現地軍の部隊を動かす立場の将校の方々から出ていたそうです。そういった意見の上申があったにもかかわらず、作戦をゴリ押しする指揮官がいたため、結局実施され、ひどい結果となってしまいました。

 

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今回は第二次世界大戦が始まって4年目の1944年におこなわれた有名な戦闘、インパール作戦について取りあげました。戦いに参加した日本軍兵員の相当の割合の方々が亡くなられた、いたましい出来事ですし、どうしてこのようなことになったのか理由を知っておくことはとても意義のある事だと感じたので記事にしてみることとしました。戦いの際に補給というのは本当に大切なものなんですね。そういうことがピンとこない私でも戦いに必要な武器弾薬が前線に届かなければ戦いようがないということは、それはそうなのだろうなとは思います。現地で生活する人から牛を徴用して日本が補給したい物資を牛に運ばせようとしたものの、荷物を背負った牛が難所を移動するのも困難だったようで、作戦前に日本側の指揮官の部下の人たちがこの作戦は無理だと言っていたのは全くその通りだったようです。その分野に詳しい担当者の意見にはきちんと耳を傾けないと、末端で戦う兵員の方々がとんでもない目に遭ってしまうということがこういった出来事で示されているように感じます。大勢の日本の兵員さんが亡くなられたことで、この後日本が支配下に置いていたビルマ地域を守り通すことも困難となっていきます。軍組織の上に立つ人材の資質がどれほど状況を左右することになるのか、考えさせられる話でした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

日本軍側が大敗した戦闘に関して触れている記事「ミッドウェー海戦に参加した日本海軍の規模と空母の命運は?」はこちらです。

対米戦回避のための動きについて触れている話「野村大使とハル長官による1941年4月の日米交渉について」はこちらです。

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