戦争時にサイパン在留日本人(民間)のとった行動は

サイパンにいた民間の日本人の方々がとった行動は

 

日本がアメリカと戦争を始めたのは西暦1941年(昭和16年)の12月ですが、サイパン島が戦場となってしまうのはそれから3年後の1944年です。島で戦闘が始まると当然危険なので、サイパン島で生活する日本国籍の方々の中には戦いが始まる前に島から日本本土に避難していく人たちもいました。ただそれが許されたのは女性や子供、御高齢の方々だけだったようで、一定年齢の男性は島にとどまって日本軍の兵員と共に島を守ることが義務付けられたようです。サイパンで戦いが始まる1944年頃は島から日本本土まで船で安全に移動できたわけではなく、船で航行中にアメリカの艦艇に見つけられた場合、攻撃され沈められてしまうようないたましい出来事も起こっていました。アメリカ軍の動きも警戒しながら避難しなければならず、本土への避難はうまくいっていなかったようです。サイパンでの戦いが始まってしまう1944年6月に島にいた民間の日本人の方々は2万人ほどだったそうです。このうちの半数、1万人ほどの方々が島での戦闘に巻き込まれて命を落とされているようです。残りの半数1万人の方々は結果的に島を占領したアメリカ軍に保護されました。つまりアメリカ軍の呼びかけに応じて保護下に入ったわけです。亡くなられた民間の日本人の方々のうちでアメリカ軍の呼びかけに対し信用せず、保護を受け入れないで自ら命を絶ってしまう方々がおられました。アメリカが勢力圏にした島の領域から逃げるように民間の方々は島の北側に移動し、島の崖(がけ)から飛び降りて命を絶った、そのような事例が報告されています。正確な人数についてはわかりませんが1000人以上という指摘があるようです。島に残っていた民間の日本人の方々2万人のうち約半数の方はアメリカ軍の保護を受け入れ、残りの方々は戦闘に巻き込まれ亡くなられており、特にその中の1割以上の方々は崖から飛び降りるなどの方法で自ら命を絶ったということになります。

 

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日本軍の方々がとった行動は

 

サイパンでの戦闘がおこなわれた時、島にいた日本軍の兵員の方々の数は約3万1600人といった規模だったそうです。島外部からの日本軍の支援は期待できない、孤立した状態でアメリカ軍と戦わなければなりませんでした。アメリカ側の戦闘員の数は6万人以上だったそうですから日本の兵員の人たちの倍の規模です。限られた条件の中で日本兵の方々は懸命に戦いますが、アメリカ軍を撃退することは出来ず、島内での勢力圏を狭めていきました。島の日本軍の指揮をとっていた上官の方々は著しい劣勢の中でも降伏を選択せず、兵員に対し命ある限りアメリカ兵と戦うよう指示し自決しています。約3万1600人いた日本兵のうち、約3万人の方々が戦死されてしまいました。日本兵の大半が亡くなられたことになります。ただアメリカ軍の捕虜となることを受け入れた日本兵の方々も900人ほどおられました。その中には1945年の12月まで投降せず、アメリカ軍から身を隠しながら戦い続けた方々もおられたのだそうです。サイパンでの本格的な戦闘がおこなわれたのは1944年の6月から7月までです。ですからそういった方々は1年半ほど降伏せずに戦い続けていたことになります。ということで9割以上の日本兵の方々が戦死され、3%弱の日本兵の方々が捕虜となったということになります。

 

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民間の日本人の方々がなぜ自殺されたのでしょう

 

もしアメリカ軍に捕まってしまった場合には日本軍の兵員でなくても虐殺されたり暴行されてしまう。そのような話がまことしやかに日本軍や日本の民間人の間に広がっていたようで、信じていた民間の方々が多くおられたようです。真偽については確認しようがありませんが、サイパンで戦われ生還された日本兵の方でアメリカ軍に捕まった日本の民間人の方々が虐殺されていたといった内容を証言する方もおられたようです。もし仮にそれが本当であったならば、そのような光景を見聞きした民間人の方々がアメリカ軍の呼びかけを信用せず命を絶つような行動に走った理由になり得るのかもしれません。しかし、先ほども書きましたように生還された日本兵の方の証言に関しては真偽について確認が困難です。

 

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今回は第二次世界大戦時のサイパン島での戦いに関して一部取りあげました。サイパンは第一次世界大戦後日本が統治することになった島であり、サトウキビの生産が盛んで日本の砂糖の需要を支える地域だったようです。南洋興発(なんようこうはつ)という日本政府のお役所と密接な関係にあった会社に関わる日本の方々がたくさん島で生活されていたそうです。戦争になると日本本土ではない地域で生活している日本人の方々が大変な被害に遭うという話は少なくないですよね。第二次世界大戦以前でもシベリア出兵がおこなわれていた時に民間の日本の方々がシベリアで被害に遭われた尼港事件が起きていますし、中華民国の内戦がおこなわれていた時に山東地方で生活していた日本の民間の方々が被害に遭うような話もありました(済南事件)。中華民国の蒋介石政権と日本政府の関係が悪化していたころに中国大陸の華北地域で日本の民間人が被害に遭われた通州事件という出来事も発生しています。国外や本土ではない地域で生活している日本人は特に、現地で戦闘や混乱が起きた場合、過去にこのような被害が起きているということを教訓として知っておいたほうがいいのではないかと改めて感じました。そして戦争になってしまうと戦っている相手が信用できず自決してしまうような悲惨な事例も発生してしまうものなのですね。当時の現地の極限的な状況ですと戦っている敵を信用しなさいという方が無理なのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

大戦中の日本で民間人の方々が被害に遭った他の出来事に触れている話「東京大空襲で被害者となった方々の人数は」はこちらです。

日本で大勢の方々が被害に遭った出来事について触れている話「広島の原爆による被害者の方々の人数はどれ位なのでしょう」はこちらです。

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