学童疎開と集団疎開の違いは何なのでしょうか

学童疎開と集団疎開の違い

 

学童疎開(がくどうそかい)というのは学童、当時の国民学校初等科で学ぶ12歳以下の子供たちのことですが、その子供たちが都市圏で敵国の空襲などの攻撃による被害に遭うことのないよう、地方へ移動させる行為を意味しています。集団疎開(しゅうだんそかい)は敵国側からの攻撃による被害を受けないよう、文字通り集団で地方へ移動する行為のことです。集団疎開する人たちというのは定義上年齢を制限しているものではないようですが、大抵は国民学校初等科で学ぶ学童の方たちを意味しています。集団疎開というのは都市圏の子供たちが学校単位に集団で地方に移動するという事例が多かったようです。このような意味から大抵の集団疎開というのは学童疎開の一パターンだと言えます。

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学童疎開の他の形式には縁故疎開(えんこそかい)というものがあり、これは集団で疎開するのではなく、都市圏で生活を送っていた学童個人が地方で生活している血縁関係にある世帯、あるいは学童の世帯と知り合いの関係にある地方在住の世帯のもとへ移動し生活を送る行為です。このように学童疎開には集団疎開と異なるパターンも含まれています。学童疎開は集団疎開も縁故疎開も含んでいる言葉なので、その点で学童疎開と集団疎開には違いがあります。学童疎開が開始された時期と集団疎開が開始された時期に関しても少し違いがあるようです。縁故疎開という形式で学童疎開に国が力を入れ始めたのは西暦1943年(昭和18年)の10月以降のようです。集団疎開が始まるようになるのは1944年の7月以降になります。疎開した学童(70万人弱)のうち縁故疎開形式だった子供たちと集団疎開形式だった子供たちの割合は若干縁故疎開が少ないくらいで、ほぼ半々の割合だったようです。

 

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集団疎開先は

 

東京で生活していた学童たちは様々な地域に移動したようですが、多かったのは福島地方、群馬地方、長野地方、静岡地方、栃木地方だったようです。移動先ではお寺や神社、旅館などが生活の場所となりました。横浜や名古屋、神戸の学童は同じ県内の地方に移動することが多かったようです。大阪の学童は大阪府内の地方へ移動する場合が一番多かったようですが、滋賀県や奈良県へ移動した事例も多かったようです。沖縄県から疎開した方々は沖縄の島々が戦場になる恐れがあったという、都市圏の空襲とはまた別の理由での疎開でしたが、熊本県や宮崎県へ移動した事例が多かったようです。

 

疎開しなかった学童の方々もおられました

 

疎開せず、都市圏にとどまる子供たちもおられたようです。割合としては縁故疎開していた子供たちと同じくらいの数、32万人くらいだったそうなのでかなりの数ですね。疎開しなかった理由は様々なようで、疎開先での費用を捻出できない、働くなどして家計を支えている学童が疎開した場合世帯が困窮してしまうなどといった経済的な理由や離れて生活するというのは忍びないという父兄の強い意向が理由の場合もありましたし、疾病が理由で疎開しなかった事例もありました。

 

疎開対象者の変化

 

上の項目で書いた通り集団疎開は1944年の7月以降に本格的におこなわれていくことになりましたが、対象となっていたのは国民学校初等科の3年生から6年生の子供達でした。8歳から12歳の子供たちということですね。1年生、2年生の子供たちは対象となっていなかったようです。まだ幼いことで集団生活に適応するのが大変だろうという配慮からこのような対応がとられていたと思われますが、戦況が差し迫っていったことでそうも言っていられなくなりました。1945年の3月以降は1年生や2年生の子供たちも疎開の対象となります。ただ基本的に縁故疎開にするよう政府からは勧めていたようです。

 

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今回は学童疎開について取りあげました。戦況が日本にとって不利となり敵国による日本本土の空襲を許してしまうような状態になってしまったので、こういった動きになっていくわけですよね。勤労動員や学徒動員もそうですがこの学童疎開も日本がつらい状況であったことをはっきりと示している出来事だと思います。当時の状況を知るうえで重要な出来事だと感じたのでこの件を取りあげてみました。でも政府や言論機関はアメリカなどとの戦争の状況を正確には伝えていなかったんですよね。日本が有利な状況で戦っていれば国民にこのような負担をかける必要などあるはずがないのですが。日本本土への空襲は、現在では海外旅行先としても有名なサイパン島がアメリカ軍の手に落ちてから本格的におこなわれるようになりました。サイパン島が日本本土攻撃の拠点として非常に適した位置に存在していた島だったようです。日本がサイパン島で敗れた後、東条内閣で国務大臣を務められていた岸信介さん、戦後に総理大臣を務められた方ですが、このかたが東条首相に日本本土が攻撃されるようになれば戦いを続けるために必要となる物資の生産も難しくなるから、もう敵国と講和をするべきだと進言したのだそうです。後から振り返ると、その後大都市を中心に物凄い空襲がおこなわれ、広島、長崎への原子爆弾の投下となるのですから、子供たちを守るためにも岸さんの提案というのは的を得たものだったのだろうなと感じます。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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