東京大空襲で被害者となった方々の人数は

東京大空襲が起きた時の被害者の人数は

 

西暦1945年(昭和20年)3月10日にアメリカ軍が東京の一部地域に対しおこなった非常に激しい攻撃である東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)。この日の東京に対するアメリカの攻撃によって被害を受けられた方々の人数ですが、警察当局の報告が残っており、この数字がよく参考として使用されているようです。この日の空襲で被害に遭われた方々の人数は約100万8000人にものぼるそうです。この数字については家を失った方々の人数という説明で使用されている場合もあるようです。当局はこの被害に遭われた100万人ほどの方々の人数の他にも、亡くなられた方々の人数が約8万3700人、怪我をされた方々の人数が約4万900人であったと報告しているようです。人数とは異なりますが火災で焼けてしまった家屋の戸数が約26万8300戸だったという報告もされていました。警察での報告は約8万3000人の方々が亡くなられたとなっていますが、この日の空襲で亡くなられた方々の人数については他の説もあるらしく、10万人以上だったという指摘もあるようです。3月10日の空襲は非常に激しかったのですが、アメリカ軍はそれ以降も東京を爆撃しています。4月中旬にも5月25日頃にも激しい空襲がありました。5月25日の空襲では約62万4000人もの方々が被害に遭われ、死傷者の方々は約5300人にもなったそうです。1945年には東京に35か所の区が存在していましたが、35区で生活されていた方々の人数は1945年で約277万人くらいだったそうです。なので4割近くもの人々が3月10日の大空襲で被害に遭ってしまったことになります。

 

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東京大空襲の被害地域

 

この日(3月10日)の空襲で被害を受けた中心となった地域は城東(じょうとう)地区あたりでした。皇居である宮城(きゅうじょう)から東側の地域を城東と表現することがあります。城東地区には現在の23区では江戸川区、葛飾区、江東区、墨田区が該当するそうです(1945年に時点では東京には35か所の区が存在していました)。特にひどかったのは現在の江東区や墨田区、台東区となっている地域でした。小規模の工場が多数ある地域だったそうで、こういった事業者に打撃を与えることで軍需物資の生産を困難にしようという意図がアメリカ側にはあったようです。ただ、被害に遭った地域はそれだけにとどまらず、現在の足立区、荒川区、板橋区、大田区、北区、渋谷区、新宿区、世田谷区、中央区、千代田区、豊島区、文京区、港区といった地域でも上記の城東地域ほどではないにせよ被害が出ていました。

 

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東京大空襲をアメリカの戦争犯罪と指摘する意見

 

この3月10日の空襲行為についてアメリカの戦争犯罪だとする意見があるようです。当時の国際法に違反した攻撃をしていたと見なしていることからそのような意見になっているようですが、この点については異なる立場の意見もあるようで見解が定まっているわけではありません。最近でも国会議員が日本政府はこの東京大空襲が国際法違反の行為であったと考えるかどうかについて質問することがあったようですけれど、政府側は国際法違反であったという立場を取りませんでした。しかし同時に人道主義に合わない行為だったという考えを示してはいます。国際法違反だとする主張の根拠としてよく取り上げられるのは多くの国々が結んでいたハーグ陸戦条約という国際的な取り決めです。1910年代から効力のある条約だそうですが、この条約の付属書の中に第23条として攻撃に関する禁止事項が列挙されており、その中に不要な苦しみを加える兵器の使用を禁止することも盛り込まれていて、焼夷弾(しょういだん 燃焼を促進する材料が多く含まれた攻撃対象を焼き払う事を目的とした兵器)で住宅密集地を火の海にするような行為はこの禁止事項に違反していると見なす方々も多いようです。また人によっては第25条の防衛されていない都市、建築物はどんな手段であっても攻撃してはいけないという部分に東京大空襲が当てはまると主張しているようです。意見が分かれるところかもしれません。

 

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今回は東京大空襲について取りあげました。第二次世界大戦中の日本がこうむった戦争被害の代表的な話ですし、具体的な被害規模について個人的によくわかっていなかったこともあり、今回のようなテーマで記事を作ってみることにしました。説によっては一夜にして10万人以上の方々の命が奪われたという出来事です。10万人と言えば地方都市の人口くらいの人数になります。そんな大勢の人たちが一度に亡くなるというのは想像を絶する話です。恐ろしいとしか言いようがありません。大規模な空襲を受けたのは何も東京に限った話ではなく大阪や名古屋をはじめとして様々な都市が被害を受けていました。大都市には軍需物資の生産設備があり空襲によって当然被害を受けます。こうした被害で戦争継続がいよいよ厳しくなっていきますね。他の記事での繰り返しになりますが東条内閣の国務大臣を担当していた、後に首相にもなる岸信介さんは1944年の7月にサイパン島が陥落してしまったのだから今後アメリカによる日本本土空襲が深刻となり、軍需物資の生産に責任が持てない。講和するべきだとの進言を東条首相にしたそうです。岸大臣の進言通りの結果になっていますね。政府指導者の人たちは大抵このままいったら東京大空襲のようなことになることがわかっていたのかもしれません。一介の国民としてはこんなことが起きる前にさっさと戦争を終わらせてほしいものですが、簡単ではないのでしょうね。当時の日本には日本が不利な条件で講和を結ぶことに徹底して反対するような強硬派の軍人たちが多数いたのでしょうから。しかし軍というのは国民を守るのが重要な責務であるはずです。当時の日本軍は今回の東京大空襲のような史実を見てみると全然責任を果たせていない気がします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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