1865年に出た条約勅許とは?兵庫が関わる理由についても

1865年の条約勅許

 

西暦1865年(慶応元年)の条約勅許とは日米修好通商条約を始めとした、いわゆる「安政の五カ国条約」について日本が関係五カ国とその条約を結ぶことを朝廷が許可したことを意味します。

安政の五カ国条約とはアメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアといった五カ国との間で結ばれた通商条約のことです。結ばれた条約の内容は日米修好通商条約と同じようなものでした。より多くの港を開き貿易をしていくための約束事です。この安政の五カ国条約ですが、江戸幕府が関係五カ国との間で結びはしたもののあくまで江戸幕府の独断、江戸幕府が勝手に決めた話でした。

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当時、江戸幕府が政治をしていたので勝手に決めるのは当たり前だろうと思われる方もおられるかもしれませんが、このような約束を諸外国とするのは朝廷の許可が絶対に必要だ、と考えるような朝廷を尊重する勢力が当時存在していました。彼らは一定の発言力を持っていました。例えば尊王攘夷(朝廷中心の政治を行い武力で外国勢力を追い払おうという考え)を理想と考えるどこの藩にも所属していないようなお侍さんや朝廷を尊重する考えの強い有力な藩などです。

江戸幕府が諸外国と通商条約を勝手に結ぶとそのような勢力が反発するに決まっていますし幕府としても朝廷の意向を尊重したいという思いから、朝廷からの条約締結に関する許可を得て条約を結ぼうとしました。しかし江戸幕府が朝廷側を熱心に説得しても朝廷は許可を出そうとしませんでした。頑なに拒否したのです。

しかし条約を結ばなければ諸外国から武力行使される危険性も大いにあったため朝廷の許可など待っていられる状況ではないと判断した当時の幕府は朝廷の許可(勅許)を得ずに条約を結びました。この出来事は「条約勅許問題」と言われることもあるようです。条約(日米修好通商条約)が結ばれたのは1858年(安政5年)でした。それ以降1865年まで幕府が条約を結んでいるものの朝廷が許可しないという状況が続いていたわけです。1865年にようやく朝廷、幕府、双方とも条約を認めるという体制になりました。

 

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この条約勅許について兵庫が関わってくる理由

 

このタイミングで朝廷から条約の許可が出たのには理由がありました。諸外国が圧力をかけてきたからです。どのような圧力かですが、複数の国からなる艦隊が兵庫沖に押しかけて朝廷から条約の許可を出すことと兵庫の港を開くことを要求したのです。朝廷のある京都から近い地域の一つ兵庫にまで艦隊がやってきてしまったことで幕府も対応に追われました。

幕府が諸外国の要求を実現できないならば幕府に交渉する能力は無いと見なして諸外国の代表者は朝廷と直接交渉するとまで言い出します。

四国艦隊下関砲撃事件の後ということもあり諸外国は遠慮なく強硬に幕府に要求してきました。幕府は拒否できる状況ではなく朝廷も結果的には条約を認めることとなりました。このように兵庫沖に押しかけるという諸外国の強引な働きかけによって条約勅許は実現したのです。

 

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今回は1865年の条約勅許について取り上げてみました。頑なに諸外国との関わりを拒否してきた朝廷も武力を背景にした他国の圧力によって結局は要求をのまざるを得ない結果となります。

1858年から1865年の間は朝廷の許可無しで他国と付き合ってきたわけですし諸外国も朝廷からの許可を得ることについては7年間遠慮していたわけです。このような諸外国の方針が強硬路線に変化したのは先ほども書きました四国艦隊下関砲撃事件が起きて長州が大敗北したからなのだろうと思います。

そもそも長州がこんなに攘夷(武力を行使して他国を追い払うこと)にこだわっているのは朝廷が攘夷を支持し条約を今に至るまで許可していないからだと諸外国は判断したのでしょうね。

長州が攘夷という理想を掲げて行動すればするほど、長州が尊敬してやまない朝廷に迷惑がかかるというのは皮肉です。

当時の日本は貿易を要求していた諸外国に比べ軍事面で劣っているということを朝廷側がよく理解して対応していたのなら傷口はこのように深くならずに済んだのかもしれません。それまで朝廷の人たちには現実がよく見えていなかったということでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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