戦後最初の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)の結果は?

戦後最初の総選挙の結果は

 

第二次世界大戦の主要な戦闘が西暦1945年(昭和20年)8月に終了しますが、戦闘が終わった後に初めて衆議院議員の総選挙がおこなわれたのは1946年の4月でした。この総選挙、衆議院議員の皆さんの任期が終了したからおこなわれたという選挙ではありませんでした。その前の年、1945年の12月に当時の政権、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が衆議院を解散したことによって行われた総選挙です。前置きが長くなると選挙結果を知りたい閲覧者の方々にご迷惑がかかりますので補足情報はまた後ほど書かせていただきます。この1946年4月におこなわれた衆議院議員総選挙。当選できる人数は466人でした。選挙の結果、一番多く議席を確保することが出来た勢力、第一党は日本自由党でした。日本自由党は141議席を得ています。二番目に議席を得た勢力、第二党は日本進歩党でした。日本進歩党はこの選挙で94議席をとっています。三番目に大きな勢力、第三党となったのは日本社会党でした。日本社会党は日本進歩党とほぼ同じ議席、93議席を得ています。4番目に大きな勢力となったのは日本協同党という政党でした。ここからぐっと議席数が減りますけれど、日本協同党は14議席を得ることが出来ました。5番目に大きな勢力となったのは日本共産党でした。日本共産党は5議席を獲得しています。戦前は非合法の政党だった共産党ですが、この選挙によって議会に議席を得ています。主な政治勢力の獲得議席数は以上のような結果でした。少ない議席数にとどまっている政治勢力についてはここでは省略させていただいています。

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第一党は上で書いた通り日本自由党で141議席ですが、衆議院議員の定員が466人となっていることからわかる通り、日本自由党の勢力は衆議院全体の過半数の議席、234議席に届いておりません。ということでどの政治勢力もこの選挙で圧倒的な勝利を得ることは出来なかったということになります。ところで、ここに出てくる政党の大半(日本自由党、日本進歩党、日本社会党、日本協同党)は戦前、第二次世界大戦が終了する以前は存在していなかった政党ばかりです。日本共産党は戦前、非合法ではありましたが誕生していました。日本社会党に関しては明治時代に同じ名前の政党が作られたことがありましたが誕生した翌年に解散させられています。戦後の日本社会党はそれとは別の政党です。日本自由党は鳩山一郎(はとやまいちろう)さんや芦田均(あしだひとし)さん、安藤正純(あんどうまさずみ)さん、三木武吉(みきぶきち)さん、河野一郎(こうのいちろう)さんといった人々が中心となって立ち上げた政党です。社会主義、共産主義を掲げず中道的な立場も取らない保守的な政党です。今挙げた人々は戦前東条英機内閣のもとでおこなわれた総選挙、いわゆる翼賛選挙の時に政権側の息のかかった団体の推薦を受けずに翼賛選挙を戦った非推薦の議員の方々だったという特徴があります。当時非推薦議員は圧倒的に少数派でした。そのような翼賛選挙を非推薦で勝ち上がった人たちですから物凄く選挙に強かった人たちと言えます。

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日本進歩党も保守政党でした。この政党は戦前の大政党、立憲民政党(りっけんみんせいとう)にかつて所属していた人たちが集まって作った政党です。日本社会党は戦前無産政党(むさんせいとう)と呼ばれた合法的な社会主義政党(例えば社会大衆党などです)に所属していた人たちが立ち上げた政党です。日本協同党は社会主義や共産主義といった立場でもなく保守勢力という立場でもない中道的な立場に分類される政党だそうで、社会運動家の賀川豊彦という人が関わって作られました。この政党の名称である協同というのは協同組合の協同のことだそうです。戦後初の総選挙は上で書いた通り1946年の4月におこなわれています。その前の総選挙は1942年に東条英機内閣のもとでおこなわれた、いわゆる翼賛選挙でした。衆議院議員の任期は4年ですからだいたい4年が経過しておりますし、幣原喜重郎首相はわざわざ1945年の12月に衆議院解散をおこなわなくても任期満了で翌年の似たような時期に総選挙をおこなえたはずです。敢えて幣原首相が衆議院を解散したのは何故なのか。当時、政権が理由と思われる内容を表明しています。要旨は新しい衆議院議員選挙法によって国民の総意が反映した新しい議会を早く成立させたいということだったようです。1945年に内容が変更された衆議院議員選挙法によって20歳以上の国民は性別関係なく選挙権を行使、投票できるようになっていました。ただこれは建前でGHQに解散しろと幣原内閣が指示を受けたから解散したとも言われています。そのため1945年12月の解散はGHQ解散などと呼ばれるような場合もあります。

 

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今回は戦後初めての総選挙の結果を取りあげました。戦前には存在していなかった政党が議会の大半を占めるようなことになりましたし、この選挙結果はその後の新しい政権が誕生することにもつながりますので記事にしてみました。幣原喜重郎内閣は選挙後も政権を維持しようと動いたそうですが衆議院からの反発で結局その後退陣することになります。先ほどGHQが幣原内閣に衆議院を解散するよう指示をしたから解散したといった内容を書きましたが、GHQが政権にそのような要求をしたのは1942年の総選挙、戦前の東条内閣のもとでおこなわれた選挙で当選した衆議院議員の人たちに対する不信感があったから、そのような衆議院議員たちに新しく定めようとしている憲法の議論に参加させたくなかったから、といった見方もあるようです。実際戦前から衆議院議員だった人たちの中でGHQによる1946年1月の公職追放に引っかかってしまい議員で居続けることが出来なくなった人たちが大勢出てくることになります。議会から連合国側の言う軍国主義を支持したような勢力を一掃したいというGHQの思惑がこういったところに出ています。そういう状況でおこなわれた選挙ですから、意見が分かれるところかもしれませんが、戦後初の総選挙も翼賛選挙と同様、公正な選挙ではないねという意見が出てきても仕方のないところではないでしょうか。GHQの公職追放によって立候補させてもらえないような人が多数いたのですから。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

戦前の選挙権獲得に関する話「1925年成立の普通選挙法とは?一部内容や女性の選挙権も」はこちらです。

戦前、女性の参政権が制限されていたことについて触れている話「新婦人協会とは?治安警察法との関連や平塚さんについても」はこちらです。

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