将軍が江戸を出てから第二次長州征討開始まで長期間経過した理由

第二次長州征討まで時間がかかった理由

 

幕府から長州藩への指示と長州藩から幕府への返事(反応)のやり取りで大変時間がかかりました。また外国の艦隊が兵庫沖にやってきて通商条約を朝廷が許可するよう要求してきたため、その対応に追われ時間を費やしました。この二つが大きな理由になるかと思います。

 

将軍、徳川家茂公が江戸を出発

 

第一次長州征討が1864年に始まり討伐軍のトップである(尾張藩藩主の経歴を持っていた)徳川慶勝(よしかつ)公が長州藩に要求した内容を長州側が大体満たしたこともあって慶勝公の判断で第一次長州征討は終了となりました。しかし幕府中枢は長州側に対してもっと厳しい条件を求めます。長州藩の藩主、毛利敬親(たかちか)公と彼の養子を江戸に連れて来させろというのがその条件で、慶勝公は幕府からその要請があっても従いませんでした。

幕府としては収まりがつかずその後も他の藩に長州藩主を江戸に連れてくるにあたって協力を要請しましたが色々な藩に断られました。

しかし幕府中枢は長州藩主を江戸に連れてくることを断念せず、幕府自ら行動することを表明し1865年5月にとうとう将軍徳川家茂(いえもち)公本人が江戸を出陣しました。家茂公は5月中に大坂城に入ります。

 

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長州藩への指示と長州藩からの返事

 

家茂公が大坂に滞在する状態で幕府の要求を伝えるため長州側の重要人物に大阪に顔を出すよう指示を出しました。長い時間待って返ってきた回答は病気なので時間を下さいという内容でした。幕府はそれならばということで長州藩の他の重要人物に大阪に顔を出せと指示しましたが、この返事についても長い期間待って返ってきた回答が病気なので大阪に行けませんという内容でした。こんなやり取りでもう1865年9月になってしまいました。

 

三カ国からなる艦隊が兵庫沖に出現

 

1865年9月にイギリス、オランダ、フランスの軍艦で編成された艦隊が兵庫沖に現れます。長らく幕府だけが許可し朝廷が許可していない状態が続いている通商条約を朝廷も許可せよと強引に求めてきました。他にも兵庫港を開港せよという要求もしています。

幕府を窓口にこれらの国は要求してきているため、幕府側も対応に追われました。結局これら外国の圧力によってアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダとの通商条約である安政の五カ国条約を朝廷も認めることとなりました。この問題に時間を取られたのはもちろんですが、解決にあたっていた幕府に対する朝廷側の厳しい姿勢に抗議する意味があったのでしょうか。将軍家茂公が将軍の立場を辞する(将軍を辞めます)と表明して大坂を出発し江戸に向かってしまいました。結局朝廷から制止され家茂公は江戸に戻るのをとどまりましたが、家茂公が大坂城に戻ったのは11月です。江戸を出発して半年も経過していました。

 

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更に時間は経過します

 

長州藩に対する幕府側の疑念を長州藩の重要人物に問いただす面談を1865年の11月にしてはいますが特に状況を大きく転換するきっかけにもなりませんでした。とうとう1866年になってしまいます。年が明けても幕府は長州藩の藩主親子や長州藩の系列である藩の藩主らに呼び出しをかけるという手法を続けます。しかし長州は呼び出しに対してやはり病気で行けませんと断ったり、本人たちではなく代理人をよこして幕府からの命令を長州藩へ持って帰るといった手法を取り更にどんどん時間が経過していきました。

代理人に幕府から長州への命令を伝えたのは1866年の5月です。定めた期限までに命令に従うという承諾書が長州藩から提出されなければ6月に攻撃すると幕府は伝えました。こうして家茂公が江戸を出発して1年以上経過したのです。

 

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この期間の出来事を調べていて、よくこんな体制で幕府は第二次長州征討を実行したなと感じます。討伐軍の顔が将軍を辞めるといって一旦大阪から江戸に帰りかけたのです。戦争を遂行できる状態には感じられませんが、どうなのでしょう。また様々な方が指摘されているようですが大軍を江戸幕府は率いて関西まで来ているわけです。ただで大坂に滞在できるはずもありません。滞在しているだけで大変な費用がかかっています。

外国艦隊が兵庫沖に現れ状況が大変複雑になり朝廷と幕府の考えもかみ合わなくなったようですが、朝廷から通商条約に関する許可を得た時点で長州征討は余程状況が整わない限りとりやめとして幕府軍は江戸に帰った方がよかったのではないでしょうか。

このタイミングで外国艦隊が幕府に難しい要求をしてきたというのも何か奇妙な感じがします。1864年の四国艦隊下関砲撃事件で外国が長州に相当なダメージを与えたとはいえ、外国が長州藩を問題視していたのならその長州を討伐しようとしている幕府勢力の邪魔になるようなこのタイミングに難しい要求を幕府にしたのはおかしな話ではないでしょうか。この時点で外国と長州の間で何か幕府が不利になるような約束をしていたのではないかと思ってしまいました。

幕府勢力は結構なハンデを抱えた上で長州との戦闘に突入しなければならなかったようです。「今はやめときましょう。」と第二次長州征討を制止する発言力のある人物は当時の幕府中枢にはいなかったのでしょうか。わからないことが多いテーマとなりました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

第二次長州征討関連記事「第二次長州征討の結末とそれに関わる幕府側の異変」はこちらです。

第一次長州征討関連記事「第一次長州征討とは?長州征討が実行された理由についても」はこちらです。

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