60年安保闘争でデモに参加した人々の人数はどれ位でしょう

60年安保でデモに参加した人たちの人数

 

60年安保、西暦1960年(昭和35年)に新たな内容に変えられた日米間の安全保障に関する条約に日本政府が調印したり日本の国会でその条約を承認することを巡って当時の日本社会では非常に強い反発がありました。特にこの条約を国会で承認することになった時期、1960年の6月は反対運動がとても盛り上がっていました。反対運動があまりにすごかったため本来来日することになっていたアメリカの大統領(当時アイゼンハワーさんが大統領でした)が予定を見送るほどでした。この新しい日米安全保障条約は1960年の6月19日に国会で承認されましたが、その前日の6月18日やそれ以前の6月15日には33万人が国会の周辺でデモ活動をおこなっていたと言われています。ただこの33万人という数字はデモをおこなった当事者側が言っていた数字のようで、そのようなデモ活動が暴動に悪化しないよう管理しなければならない立場の警察側の発表では13万人という数字になっているようです。デモ参加人数については立場によって数字に大きな開きが出てくるもののようです。反対運動が特に盛り上がっていた時期のデモ参加人数は国会周辺で以上のような数字になっていますが、6月15日は全国様々な所で反対活動がおこなわれていたようで、デモと特定はできませんが反対活動に参加していた人の数は580万人にもなっていたという指摘があるようです。

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また、盛り上がっていた頃の規模に比べれば小さかったものの安全保障条約の内容を改めるために日米間で交渉がおこなわれていた1959年からこのような反対活動はすでにおこなわれていました。そのような以前からの反対活動の時期も含めますと、反対集会に参加した人たちの数は約459万人、デモに参加した人の数は約428万人、職場の労働組合関係の反対集会やストライキに参加した人の数は約706万人にもなったのだそうです。またデモ活動とは異なりますが、安全保障条約の内容を新しく変更することに反対する署名をおこなった人の数は約1300万人にもなりました。このように相当の人数の人たちが1960年の安全保障条約の変更に反対していました。少し補足します。デモ活動というのは自分たちの考えを声に出したりプラカードと呼ばれる、人目に触れるように大きな文字で書いた看板(例えば「増税反対!」とか)を掲げたりしながら同じ場所で、あるいは路上を練り歩いたりして自分たちの主張を社会に示す行為です。労働者の人たちにとって重要な行事となっている5月1日、メーデーにはこのようなデモ活動を目にする機会が多くなるかと思います。このデモ活動は事前に警察に届けておくことが必要になります。デモ活動が交通の支障にならないよう警察も対応しなければなりませんので。集会というのは同じ目的を持った人たちが特定の場所に集まることです。ストライキは労働者の人たちが自分たちの要求を実現するために一定期間、通常の業務を停止する行為です。

 

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なぜ安全保障条約の内容を変えようとしたのでしょう

 

当時の内閣は岸信介(きしのぶすけ)さんを首相とする岸内閣でした。岸首相はアメリカ側が特に積極的に安全保障の条約内容を変更しようと考えていなかった中、内容を変更するようアメリカにはたらきかけ交渉をおこない、1960年の条約内容変更を実現させました。これまで書いた通り日本社会で非常に強い反発があったのになぜ岸首相は内容を変更しようとしたのでしょう。1951年に調印された日米間の安全保障条約の内容はアメリカの都合を相当反映しているものとなっているので、アメリカと日本が出来るだけ対等となるような内容に変更するべきだと岸首相は考えていたようです。独立を果たしはしたものの、アメリカに従属している傾向の強かった日本を、完全な対等関係とは言わないまでも、より対等な関係に近付けて日本の独立性を高めたかったようです。岸首相はアメリカが攻撃された時に日本がアメリカを守るために武力行使が出来るよう、日本国憲法の9条の内容を変更するべきだとも考えていました。

 

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今回は60年安保について反対活動をした人たちの規模という内容を中心に取りあげました。どれくらいの人がデモに参加したのかについて一定の関心があるようでしたし、何故そこまで反対運動が強まったのか今一つピンとこなかったので私としてはその理由を知りたく、このような記事を作ってみました。当時の日本国民からしてみると安全保障条約の内容を政府が言うように変えてしまうとアメリカが関与する戦争に日本がどんどん巻き込まれていってしまうという心配がとても強かったようですね。この時代、アメリカはソ連との対立を強めていましたしソ連も核兵器を保有していました。アメリカと同盟関係を強めれば共産主義陣営からは日本も敵側と見なされます。朝鮮戦争も実際に起こってしまったわけですし、日本がアメリカとの関係を深めると共産主義陣営と戦争することになってしまう、またたくさんの日本人が命を落としてしまう。そのように考えて多くの人が安全保障条約の内容変更に反対したということのようです。ただ幸い日本国内が戦争に巻き込まれるようなことにはその後なりませんでした。しかしソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻したという出来事もありましたから、その後共産主義陣営が周辺諸国に武力介入した事例がなかったわけではありません。アメリカによる日本の防衛義務が新しい安全保障条約の中に明確に盛り込まれたから共産主義勢力の日本への武力介入を防ぐことが出来たという見方も出来るのかなという気がします。一方日本国憲法の平和主義のおかげで日本国内が戦争に巻き込まれないで済んだという意見もありますが、個人的には首をかしげてしまいます。戦後なぜ日本国内が戦争に巻き込まれずに済んだのかについては意見が分かれるところなのでしょうね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

国民が強く反発した別の時代の出来事に触れている話「1918年に発生した米騒動とは?その原因や影響についても」はこちらです。

かなり盛り上がった別の時代の政治運動に触れている話「第一次護憲運動とは?中心人物や自由民権運動との違いについても」はこちらです。

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