四日市ぜんそくの原因やとられた対策について調べてみました

四日市ぜんそくの原因

 

西暦1960年(昭和35年)頃から三重県の四日市(よっかいち)市でぜんそくの症状を訴える人が増加しました。その後「四日市ぜんそく よっかいちぜんそく」と呼ばれるようになった疾患です。四日市は三重県の北部にある都市で伊勢湾に面し、現在30万人以上の人口を抱えています。公害が発生しはじめた頃は20万人台の人口でした。ぜんそく症状をきたす人が増加したことで原因を究明するために近辺の大学が調査をおこないました。1963年に三重大学医学部の公衆衛生の専門家がぜんそく症状を患う人が増加していることと高い濃度の硫黄酸化物によって四日市地域の空気が汚染されていることが関連している疑いが強いと公表しています。四日市地域の大気汚染に関し地域住民が訴えた裁判で1972年には、ぜんそく様の症状が地域住民の中で増加したのは空気を汚染している亜硫酸ガスが原因であるという判決が出されています。こうして社会的に四日市ぜんそくの原因が亜硫酸ガスと認定されました。

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亜硫酸ガスというのは二酸化硫黄(にさんかいおう)という物質がガス状になったものです。二酸化硫黄というのは元素の一つ、硫黄に酸素が結合した物質の一つで石油から必要な化学製品を製造する過程で四日市に存在していた石油化学コンビナートから排出されていたものです。また亜硫酸ガスが大気中で霧状の硫酸に化学変化することもあり、この霧状の硫酸も健康被害の原因として指摘されていたようです。四日市ぜんそくの原因は二酸化硫黄がガス状になった亜硫酸ガスや霧状の硫酸でした。少し補足します。上で出てくる言葉、石油化学コンビナートというのは様々な企業が関連している化学工業関連の工場の集合体です。工場でたくさん電気を消費することもあって電力会社の発電所もありますし、石油化学製品に関連する様々な工場がパイプでつながっていて石油を原料にして効率的に化学製品を製造する仕組みになっています。そのような石油化学コンビナートが三重県の四日市市に出来て生産活動を開始したのは1959年でした。ぜんそく症状を訴える人が増えるようになった前年です。その後第2、第3のコンビナートが作られていくことになります。

 

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とられた対策

 

大気汚染に関してはコンビナートから排出される煙が原因なわけですから、工場の煙突を高くしました。50メートル台の高さの煙突を150m台、200m台まで高くしたそうです。煙突を高くすることによって四日市に煙がとどまりづらくはなったようですが、汚れた空気が周辺に拡散する結果となっています。他には排煙脱硫装置(はいえんだつりゅうそうち)、燃料を燃やすことで出てくる煙に含まれる硫黄酸化物を取り除くための装置が導入されていくことになります。この技術がとても向上したのは1970年代だそうです。法律分野の対策としては「ばい煙規制法 ばいえんきせいほう」という法律が出来て、ばい煙(物を燃やすことによって出る煙やすすのことです)や亜硫酸ガスの排出に制限を設けました。法律が出来たのは1962年ですが、四日市が対象地域になったのは1966年でした。それでも大気汚染が良くならないということで、その後1968年に「大気汚染防止法 たいきおせんぼうしほう」という法律も作られることになります。地上の大気中に存在する有害物質の濃度を規制する法律です。また「大気汚染総量規制 たいきおせんそうりょうきせい」という制度が導入され、自治体が定めた地域の亜硫酸ガス排出量をきめ細かく制限するという対応をおこなうようにしました。また四日市市は四日市ぜんそくの患者さんたちの治療費を市の公費でまかなうという制度を作り、患者さんたちの経済的負担を軽減する取り組みをおこないました。また国もその後「公害に係る健康被害者の救済に関する特別措置法」という法律を作って公害で苦しんでいる人たちの医療費や医療、介護のためのお金を支給する仕組みを作っています。一連の対策の効果によって1976年に四日市市は亜硫酸ガスの環境基準を満たすことが出来るようになりました。

 

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今回は有名な公害の一つ、四日市ぜんそくについて一部取りあげました。義務教育の社会の授業で亜硫酸ガスという言葉を聞いた記憶はあり、「四日市ぜんそく」という公害にまつわる言葉も知ってはいましたが、どういう理由で亜硫酸ガスが出るのか、どういう対策をとったのかという点は知ることもありませんでしたし、1960年代の出来事を記事として最近は扱ってもいるので、このようなテーマで有名な四日市ぜんそくの記事を作ってみました。石油にもいろいろ種類があって硫黄分を多く含む石油もあればそうでない石油もあって、このような出来事があってから使用される石油の種類が変更されたという話を今回知ることになりましたし、実は四日市の公害は大気汚染だけではなく付近の海の汚染もあったということも知りました。当時の漁業関係者の方々は呼吸器の病気に悩まされただけでなく仕事も台無しにされてしまったわけで、本当に大変な話です。日本の憲法が日本国憲法になったおかげなのか、戦前の足尾鉱毒のような出来事とは異なり、自治体や国がその後医療費などを支給する制度を作っただけまだましではありますが、公害で健康被害を受けない、仕事を邪魔されないほうがいいに決まっています。石油コンビナートを稼働する以前に環境に与える影響を評価するような、そういう試みって当時は無かったのでしょうかね。産業の駆け出しの時期というのは影響もよくわからないまま動き出すことになるわけですから、影の部分もこうして出てきてしまうのでしょう。このようなことが繰り返されない為にも、地元四日市では現在も熱心に公害に関する啓蒙活動が続けられているようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

高度成長期の別の公害に触れている話「水俣病の原因や会社との関わりはどうだったのでしょう」はこちらです。

石油が普及して社会が変化することに触れている話「エネルギー革命が日本に及ぼした影響は何だったのでしょう」はこちらです。

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