開国勧告したオランダ国王による親書の大まかな内容について

親書のおおまかな内容

 

以下私なりの表現で大まかな内容を示します。親書内容の一部です。

 

近年イギリスが清国を攻め大きな戦争となったことは我が国オランダの商船が毎年長崎を訪れ日本にさしあげている時局を説明している文書をご覧になってすでにご存じでしょう。

昨今の情勢を見れば世界中の人々は今までに比べどんどん交流するようになっており、その時代の流れは人の手で止められるものではありません。

蒸気船が発明されてからそれぞれの国は距離的には遠くても蒸気船の速度が速いため短い期間で行き交うことが出来るようになりました。

このようにさまざまな国が交流を深めている時に、一国のみ鎖国を行いその他の多くの国々と交流を持たずにいると多くの国々と敵対してしまう結果になってしまうでしょう。

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貴国日本がこれまで他国の人と交流しないという決まりを守り続けてきたことをヨーロッパの諸国は皆知っています。

老子は「賢者は指導者の立場につけば、平和が維持できるよう配慮するものだ」と言いました。これまでの鎖国を守るという決まりごとがかえって戦乱を招くのだとしたら、賢者は他国との交流を禁じるという決まりごとを緩めることでしょう。

徳川幕府の将軍閣下に忠告いたします。現在の平和な日本を戦争で荒廃させたくないというのであれば他国の人々と交流してはならないという鎖国政策を緩和し開国してください。

この忠告は我が国オランダの誠意から行っているものであって、我が国が利益を得るためにしていることではないのです。

人々が盛んに交流することで平和が保たれるものです。盛んに交流するのなら他の国々と貿易するのがよいでしょう。

どうか貴国の優秀さをもってよくよく御検討ください。

 

様々なことが書かれている親書のようですが、親書が伝えたい大まかな内容は以上のようになるかと思います。

渋川六蔵というかたがオランダ語の親書の概要を文語で訳した資料から、恐れ多いのですが私が自分の言葉で現在の表現にしてみました。忠実な訳となっていないところもあるかと思いますがご了承ください。

渋川さんは老子の言葉のくだりについて、「老子はそんなこと言っていないです」と注釈をつけているようです。実際はどうなのでしょう。老子を紐解いたことの無い私には判断がつきませんでした。

 

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親書について

 

この親書はオランダの当時の国王であったウィレム2世という方が時の将軍、徳川家慶公に書いたものだそうです。親書が渡されたのは1844年でアヘン戦争が終わった2年後のことでした。結局オランダの王様が開国したほうがいいよと忠告してくれたわけですが、徳川幕府はオランダに対し忠告に対しては感謝の意を表明しつつも開国はしないと伝えています。

実はこの親書は長崎の出島で蘭学を日本の人たちに教えたことで有名なシーボルトさんがオランダの王様にお願いして作られたもののようです。

シーボルトさんは日本の地図を海外に持ち出したという理由で幕府から国外追放され当時オランダで仕事をしていました。アヘン戦争で清国が敗れたことを知ったシーボルトさんは日本の今後を心配し忠告するよう王様に進言したというわけです。

オランダはその後にもドンケル・クルチウスさんという方を日本に派遣して開国を勧めました。先の親書送付の8年後である1852年には「米国が軍事力を背景に日本を開国させようとしている。その前に開国したほうがいい。」と伝えたそうです。

 

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善意かどうか簡単に判断できるものではないと思いますが、時期を考えるとオランダの国王さんが開国したほうがいいよと忠告してくれたことはありがたかったことなのではないでしょうか。それにしたがって開国していたら歴史はどう変化していたでしょう。より早く開国したことで不平等条約を結ばずに済んだ・・・。なんてうまいことにはなりせんかね。

今回のオランダ国王の開国勧告についても歴史の本を見ていて関心があったので調べてみました。シーボルトさんがこの話題で関係してくることは今まで全く知りませんでした。

シーボルトさんは米国政府に対しても日本に武力行使しないよう働きかけたのだそうです。シーボルトさんは確かに日本で当時の幕府にとって良からぬ行為をしていたかもしれませんが、日本にとって恩人としての側面もあるような気がしました。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

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