国会開設の勅諭とは?出された年号や理由についても

国会開設の勅諭とは

 

国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)は明治天皇によって出された国会に関する天皇のお考えの表明です。国会開設の詔(みことのり)と呼ばれることもあります。この表明では西暦1890年(明治23年)に議員を選んで国会を開設することによって国の政治を統一し憲法に基づいた政治体制を確立するという、天皇陛下が当初から持たれていた志を実現すると述べられています。

この明治天皇の勅諭ですが、明治政府の高官であった井上毅(いのうえこわし)さんが文章の案を作成されたそうです。

 

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国会開設の勅諭が出された年号は

 

国会開設の勅諭が出されたのは西暦1881年(明治14年)のことでした。大隈重信さんが参事を罷免された明治14年の政変と同じ時期にこの勅諭が出されています。

征韓論に敗れて明治政府を去った方々が民撰議院設立建白書を当時の立法府に提出したことが自由民権運動の契機の一つとされていますが、それが提出されたのは西暦1874年(明治7年)でした。それから7年後ということになります。また自由民権運動が発展して国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)が西暦1880年(明治13年)に結成されましたが、国会開設の勅諭はその翌年ということになります。

 

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国会開設の勅諭が出された理由

 

勅諭がこの時期に出されることとなった理由は自由民権運動を基礎とした国会開設の要求と開拓使官有物払い下げ事件をきっかけとした政府に対する反発が、この当時非常に強まっていたからだという指摘が多いようです。この開拓使官有物払い下げ事件については政府内で払い下げ計画案を大隈重信が新聞社に漏らしたという噂が広がり大隈さんを糾弾し罷免させる理由の一つともなりました。

このような民間の運動の盛り上がりに対し政府側から国会設立の勅諭を出し運動勢力の要望にある程度応える形をとることで、民権運動の沈静化を図ろうという考えがあったということなんですね。

 

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今回は国会開設の勅諭について取りあげてみることとしました。自由民権運動が望んでいる国会開設が実現することを象徴する出来事ですし、歴史上重要な項目なのではないでしょうか。

この明治天皇のお考えの表明によって国会開設時期が示されたのは勅諭内容を見て分かったのですが、憲法を定めるという具体的な文章は国会設立の勅諭内に含まれてはいないように思いました。「立憲の政体を建て」という文言はあります。これが憲法を定めるという意味を含んでいるということでしょうかね。

もともと政府の方々も憲法を定めたり国会を作ることについては実行する必要があるという考えを持っていたのだそうです。問題はどのような憲法を作成しその憲法に基づいていつ国会を作るかという点でした。政府内で主導権を握っていた伊藤博文さんらは時間をかけて憲法制定や国会開設を行うべきだという考えだったそうで、この時期に国会開設を政府が表明するつもりは本来なかったのかもしれません。国会開設の表明が明治14年に早まったのは民権運動の勢いが政府にとって無視できない状態だったからでした。

非常に強い権限を持っていた当時の明治政府高官の方々も自由民権運動を放置して政治を行うことは難しかったということですよね。世界には国民の政治運動に対し非常に過酷な武力弾圧をおこなう国もありますが、当時の明治政府は集会条例や他の言論を規制する法律を定めはしたものの、とんでもない武力弾圧のようなことをしなかっただけましといえるかもしれません。ただ現在の日本の政治状況を考えるとこの頃は憲法も国会も無いわけですから、まだまだ閉ざされた政治をしているな、と感じざるを得ません。単純な比較は不適切かもしれませんけれど。

議会政治をどのような時期に始めるのが適切なのかは私にはわからないです。民主政治がちゃんと行われるにはどのような条件が必要となるのでしょう。民主政治の制度を導入してもうまくいかずに内戦に発展してしまうような事例って世界にはありますよね。

 

この国会開設の表明が出された後、日本国内で複数の政党が結成されていくこととなります。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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