福島事件とは?県令として話に関わる三島さんについても

福島事件とは

 

福島事件(ふくしまじけん)は西暦1882年(明治15年)に発生しています。自由党員や農民が国内で起こした最初の大規模な衝突事件、直接行動として有名な出来事です。

当時の福島県における地方行政の内容が福島の人たちに相当な負担となっていました。具体的には道路工事を行うにあたり現地の人たちに工事のための労働力を提供するか、あるいは工事費用に充てるため決められた金額を県に支払わなければならないような決まりを県側が作ったり、福島県に支払う地方税をこれまでの2.5倍にするといった内容です。

このような福島県政に納得できない自由党関係者が中心となり大勢の地元の人たちが警察署へ押しかけ要求を訴えましたが解散させられるだけで要求は受け入れられませんでした。

また当局は地元の人たちの側に立って政治活動をしていた自由民権運動家たちを大勢逮捕しています。その中の幹部の人たちは「国事犯(こくじはん)」として逮捕されました。

国事犯とは政治犯、反政府活動を行ったという政治的な理由で逮捕された人のことを言います。福島県会議長だった河野広中(こうのひろなか)さんが逮捕された方の中では有名です。

逮捕された方々の中には拷問を受けた人がおられたそうです。また獄中で亡くなられた方もいました。

 

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県令の三島さんについて

 

この福島事件が発生した時の福島県令(今の知事さんのような立場ですね)は三島通庸(みしまみちつね)さんでした。三島さんは元薩摩藩士のかたです。薩摩藩での働きが認められ大久保利通さんを介し政府の役人となられたそうです。

福島県令に就任する以前にも酒田や山形で県令をされている経歴がありました。県令となった地域では道路整備を熱心に行っていたようです。福島県令の前に務めていた山形県令の時には米沢~福島間、山形~仙台間に陸運が可能な道路が整備されていきました。

この福島事件の3年後に三島さんは東京のお巡りさんのトップである警視総監となっており、後に役人としての功績を明治政府が認めたということでしょうか、子爵(ししゃく貴族階級の爵位)となっています。士族から華族になったということですね。

三島さんの業績を簡単にまとめますと上記のような内容になるかと思いますが、福島事件の背景となる道路工事のための労働力として地元住民を徴用した件や、工事に参加できないのならばお金の支払いを義務付けたりした件は三島さんが県令の時に行われたことです。

 

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今回は福島事件を取りあげてみました。自由民権運動の活動内容が過激になり運動自体が徐々に衰退していくという経過をたどるのだそうですが、福島事件は民権運動が過激化する象徴的な出来事の一つのようです。

事件の原因としては道路工事にあたって地元住民にしわ寄せが来たことや地方税が増やされたことが多く指摘されているようですので、松方財政に代表される政府のデフレ政策でたくさんの農民の人たちが貧しくなった事を理由にして発生した事件と言うわけでは必ずしもないのかもしれません。ただ政府の経済政策でつらい生活になっていたのであれば、不満はたまっていたであろうことが容易に想像できます。

現在を生きる私の感覚で言うと「道路作るから手伝え」と自治体に言われたら、仕事で忙しいので出来ません、と言いますか福島県のお金を使って土木会社に委託してはいかがですか?と言いたくなります。しかしそのような理屈は当時全く通用しなかったのですね。恐ろしい・・・。

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労働力を提供できないというのならお金払ってくださいと言われるのですから、地元民としては「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。」と言いたくもなりますよね。

江戸時代も明治初期もこれが普通に行われていたことを考えると現在は一般国民の権利が守られていて当時に比べて本当に幸せだなと感じます。

福島県が地元の人たちから無理矢理お金を払わせて工事をするよりも、国の歳入の中から予算を組んで道路工事を業者にやらせた方が経済も活性化すると思うんですけれどね。事件が起きたのは1882年。大蔵卿である松方さんの経済政策が行われていた頃ですから、当時の政府はお金を不換紙幣の回収と金貨をため込むことにばかり熱心に使って、公共工事にあまり予算を回してくれなかったのでしょう。そりゃあ不況にもなりますよね。

地元民に過酷な政治を行った三島さんは立身出世の道を行き、貴族階級である「華族」となりました。一方の逮捕された側の有名な人物、河野広中さんはどうなったのでしょう。

河野さんも実は出世されたようです。後に釈放され衆議院議員選挙(日本最初の衆議院総選挙です)に出馬し見事当選されます。西暦1903年には、ほんのわずかな期間ですが衆議院議長にもなりました。日露戦争の講和条約に反対する「日比谷焼打ち事件」を扇動した一人という理由で罪に問われたこともあったようですが、結局は無罪となっています。政治家としての経験を積み、西暦1915年には農商務大臣も務められるという経歴を残されました。逮捕されたり大臣を務めたり、波乱万丈ですね。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

日露講和関連記事「ポーツマス条約調印時に起きた日比谷焼打ち事件とは?原因についても」はこちらです。

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