1932年の第一次上海事変とは?原因や停戦についても

1932年に起こった第一次上海事変とは

 

第一次上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)とは西暦1932年1月に上海で発生した日本軍と中華民国の軍隊の間での武力衝突です。上海は中国大陸を流れる大河、長江(ちょうこう 揚子江ようすこうとも言います)の河口にある大きな都市で、当時様々な国の人たちが居住している場所でもありました。武力衝突が発生した時上海に駐留していた日本軍(海軍の陸戦隊でした)は3000名に満たない人数だったようです。衝突が発生した後、海軍の陸上戦闘を担当する陸戦隊が更に7000人派遣されその後日本政府は陸軍の部隊も派遣することを決定します。2回に分けて陸軍は3つの師団と1つの旅団を結果的に派遣しました。日本と中華民国の間で発生したこの武力衝突は中華民国軍側の退却によって日本軍側が3月3日に戦闘中止を宣言し、収束していったようです。日本、中華民国側とも多数の犠牲者が出る結果となりました。日本軍が約800人、中華民国軍が約8500人、民間人が約8000人亡くなられています。中華民国の民衆は日本に対する反感をこの出来事でさらに強める結果となったようですし、欧米各国の日本に対する警戒感も強まったという指摘があるようです。

 

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第一次上海事変の原因

 

上海で宗教活動をしていた日本のお坊さんが襲撃されたことは後で述べます。当時上海の郊外に中華民国国民政府勢力の軍隊が進軍してきました。蔡廷鍇(さいていかい)という人物が率いていた部隊でした。共産党勢力との戦いで損傷を受けていたそうで立て直しの目的も兼ね上海の近くに駐留したそうです。これまで日本は中国大陸で生活している日本人が現地の軍隊に略奪暴行殺害など大変な被害に遭わされていた過去がありましたので、上海で生活している日本人居留民を保護するため駐留していた日本軍も上海近くに国民党勢力の軍が入ってきたことで神経を使う状況でした。上海には欧米各国の国籍の人たちもたくさん生活していて租界(そかい)と呼ばれる居留区が設けられていました。欧米各国の軍隊も日本の軍隊同様現地の自国民を守ることを目的に駐留していたのです。日本も含め各国の軍隊はそれぞれ守備する地域を分担し国民党の軍隊による犯罪行為が無いよう警戒していました。1月28日日本が持ち場の地域を守備しようとした時突然中華民国の軍から銃撃され多数の死傷者を出す結果となってしまいました。銃撃したのは国民党の軍隊であることがわかり日本軍側も自衛のために応戦しその結果が武力衝突ということになりました。この第一次上海事変という出来事に関し上海で多数の中国人が日本人のお坊さんや日本人の信徒さんを襲撃し死に至らしめた事件がセットで語られることが多いようです。確かにこの日本人襲撃事件によって現地で生活している日本人と中華民国の民衆や自治体である上海市側との関係が悪化したのは容易に想像できますが、1月28日に発生した日本軍と中華民国国民党軍との間の武力衝突とは直接の関係はないように感じました。この点は意見が分かれるところでしょうか。中国人が日本人のお坊さんや信徒さんたちを襲撃した背景には日本軍関係者が満州事変に集まっている国際社会の注目を上海に向けさせるため中国人を買収し襲撃させたというからくりがあった、そのような話はよく指摘されているようです。

 

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第一次上海事変停戦

 

1月28日の武力衝突発生以降日本、中華民国両国とも兵力を追加派遣し戦闘は激化しましたが上で書きましたように中華民国の軍隊が撤退し日本軍が深追いせず戦闘中止を宣言し、それ以降の戦闘は無くなりました。停戦協定はその後すぐではなく5月5日に締結されることとなります。上海事変と話が多少ずれることになりますが停戦協定締結までの過程で日本軍の白川義則陸軍大将ら複数名の軍人や外交官、民間人たちが現地の行事に参加した時に朝鮮人の暴徒に襲撃される事件が発生しました。白川大将や現地の日本の民間人がお亡くなりになっていますし他の日本人のかたたちも重傷を負う結果となっています。協定が成立した後派遣された大半の日本軍は撤退することとなりました。中華民国の軍隊が駐留することのできない区域も設けられることになったようです。非武装地帯の治安は中華民国の警察が担当することになりました。

 

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今回は第一次上海事変について取りあげてみました。盧溝橋事件以降の日中間の武力衝突の中で第二次上海事変も発生するそうなので、その前に第一次上海事変を調べてみようと思った次第です。この出来事を調べていて日本人僧侶襲撃事件を結び付けそれが第一次上海事変の原因となったかのような指摘があることを知り違和感を持ちました。僧侶襲撃事件がどうして武力衝突と関係してくるんでしょうね。よくわからなかった点です。第一次上海事変が始まったきっかけについては日本海軍の「先に中華民国の軍隊が銃撃してきた」という報告内容が一方的なものだと決めつける材料など私にはありませんので、今のところそれが真実なのだろうなと思っています。攻撃されたら日本軍側も自分たちを守るため応戦せざるを得ませんよね。この武力衝突に関し他国の軍隊と共同して対処しなかったのは何故なのかに関して疑問が残りました。各国の軍隊と共同で守備していたはずですが銃撃されたことを他の国の軍隊に報告し支援を求めるような対応を日本軍側は何故しなかったのでしょう。そのような対応をしたら他国の警戒感を強める結果にはならずむしろ日本に対する同情的な意見も強まったんじゃないでしょうか。他国の軍に支援を断られたんでしょうかね。この点についてもよくわかりませんでした。こういった出来事で現地の日本の人たちにばかり中華民国民衆からの反発が集中していったようにも見えて、やりきれない感じがします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

その後また上海で発生する戦闘にについての話「第二次上海事変とは?大山中尉やドイツの関わりについても」はこちらです。

日本と中華民国の間での停戦の話「塘沽停戦協定とは?協定の意味やなぜ成立したかについても」はこちらです。

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