王安石さんの新法改革は失敗しました(その2)

王安石さんがどのような制度を始めたか、の続きです

中国大陸の歴史について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では唐滅亡後に五代十国時代となった中国大陸で後周(こうしゅう)王朝の位の高い武人だった、趙匡胤(ちょうきょういん)さんが後周の皇帝から皇位を禅譲してもらうことで誕生させた宋王朝について、台所事情が厳しかった時期におこなわれた改革を取り上げています。このサイトの前回の記事がその改革に関する最初の記事で、この記事はその記事の続きです。この記事ではいきなり具体的な改革内容について書き始めますので、この記事から読んでいるかたは唐突な印象を受けるかもしれません。そう感じられた方は是非前回の記事「宋の宰相だった王安石によって進められた新法改革とその失敗」をご覧いただけましたら幸いです。青苗法(せいびょうほう)、均輸法(きんゆほう)を前回の記事では説明してみました。今回の記事では市易法(しえきほう)という制度から説明してまいります。市易法というのはそれなりの規模の都市で営業していた中程度あるいは小さな商いをしていた商人、中小零細商人の存在に着目した仕組みです。当時の宋の世の中ではそれまで物資の専売制などで巨額の利益を得ていた大商人が何かと幅を利かせていました。持っているお金に物を言わせて一般の人々が必要とする物資を買い占めて高い値段で販売して大儲けしたり、中小零細商人が扱っている物資を大変安く買いたたいて零細商人の利益を圧迫したり、中小零細商人に対して高金利で資金を貸し付けたりしていたそうです。そういった大商人にとって都合の良い状況を変える仕組みが市易法でした。この仕組みは中央政権が中小零細商人に資金や物資を比較的低い金利で貸し出すというものです。また零細商人が扱っている物資を中央政権が妥当な値段で買い取るといった仕組みでもありました。この仕組みによって大商人が買い占めをすることによって高値で一手に商うような真似がなかなか出来なくなります。大商人の流通ルートとは異なる、中央政権や中小零細商人のかかわる流通ルートが存在するため政権と中小零細商人の流通ルートが適正な価格で物資を販売すると一般の人々は大商人から高い値段で物資を買わなくなりますので。また中小零細商人は中央政権から低めの金利(2割程度の金利だそうです)で資金を融資してもらえるので高い金利で大商人からお金を借りる必要も無くなり経営が楽になりました。中央政権は中央政権でそれら中小零細商人から融資したお金や貸し付けた物資の利子を得ることが出来るのでそれを財政の改善に役立てることが出来るようになります。これは大商人が得ていた暴利を中央政権と中小零細商人が奪って分け合ったという構図なのでしょう。もちろん大商人からは不満が出るに決まっています。

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青苗法とは違う、農民負担軽減の仕組みである募役法

新たな仕組みは他にもありました。均輸法や市易法は都市の商人に関わってくる制度でしたが、ここで説明する募役法(ぼえきほう)は農民が大きく関わって来る制度です。この制度については「労役や治安維持を免除する代わりにお金を支払わせ、専門の人材に担当させる」という説明を見かけます。しかしどうしてわざわざそのような仕組みを新たに設けたのかわかりにくい気が個人的にはしました。労役って民衆が生活している地域の近辺で行われる公的な土木工事に労働力を提供するような勤労負担のようなことを意味しているのだろうかと私は勘違いしていましたがそうではありません。集落の中の農業世帯を裕福さで序列化して一定以上の裕福な世帯の中から労役を担当する世帯が選ばれるのですが、選ばれた世帯は集落の農民たちから中央政権に納める税負担を徴収して自分たちの集落を管轄している中央政権のお役所に徴収した物資を運んで責任をもって納めなければなりません。この仕事を労役と表現しているのです。集落中の農民世帯からその年の収穫物の一定割合を徴収するのですから現代日本のような町内会の会費の集金とは訳が違います。一世帯がその年に生産する収穫物の量は結構な量になります。その中の一定割合を徴収して集落全体で合計したら大変な量になります。その莫大な量の農産物をお役所まで持っていかなくてはなりません。お役所がすごく近い場所にあれば負担もそれなりに軽く済むかもしれませんが、何日もかけて移動してやっと到着するような遠方に存在していることもあるのです。大量の農産物を一定期間かけてようやく運ぶわけですから、肝心の納める農産物が何らかの理由で消耗してしまうこともありえます。そうなった場合は徴収、輸送を担当しなければならない農民世帯が消耗してしまった分を賠償しなければならないのです。この一連の作業をやり遂げるためには人手も必要だったということでしょうか、結構な費用がかかったのだそうです。その費用は中央政権に報告して後で中央政権が立て替えてくれるようなことは無く、すべて仕事をするよう命令された農民世帯の負担となります。仕事を割り当てられてしまった農民世帯は作業をやり遂げるためのお金を自分の土地を売却することで捻出するような事例もありました。そのため仕事を割り当てられてしまったことで没落してしまう、自営農から小作人のような立場に落ちぶれてしまう世帯もあったそうです。こうした状況を変えたのが募役法で集落の農民世帯から広く薄くお金を徴収し、その代わり労役は免除してあげて、代わりに徴収や役所への運搬を専門業務とする人を広く薄く集めたお金を使って雇い、農民の負担を軽くしたわけです。専門業務として担当する人を雇うためのお金はこの労役を担当することがもともと無かった世帯やお寺などからも徴収され賄われることとなります。そのため農民の負担はとても軽くなりましたが、もともと徴収、農作物の運搬とはかかわりの無かった人々にとっては新たな税負担が発生したことになるため、そういった人たちにとってはうれしくない仕組みではありました。

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軍事政策

宋王朝は他国からの侵攻や国内の治安を維持するために傭兵(ようへい)を多数抱えて対応していました。傭兵ということですからお金を中央政権から払ってもらう代わりに命を懸けて治安を乱す者や敵国の兵と戦うということです。中央政権に直接所属する近衛軍のような組織とは異なってお金で動くわけです。そういった傭兵が雇い主に要求するお金は安くはなかったそうで、宋にとって負担でした。王さんは傭兵を抱えるために使っているお金を減らそうと保甲法(ほこうほう)を始めます。10の農業世帯、50の農業世帯、500の農業世帯を単位にして各世帯の成年男子に治安維持のための自警団の構成員、国防目的の民兵としての任務を課すというものでした。農作業が少なくなる時期には任命されていた成年男子たちが軍事訓練を行い兵として役に立つよう養成され、各自武器を用意しておくことが求められました。また他国と戦をする際に騎馬戦をする必要があったため、宋は戦のために馬を飼育する必要がありました。しかし政権が主体となって馬を飼育するというのは結構お金がかかっていたので中央政権としては経費の削減をしたいところでした。そこで王さんは希望する農民に馬や馬の飼料のための費用を与え、飼育させる制度を作ります。保馬法(ほばほう)というものです。いざ戦となった時は農民が飼育している馬が騎馬戦に駆り出される契約でした。戦が無い時には飼育している馬を農耕のための家畜として活用することが許可されていたというのが農民側にとっての利点でした。ただ農民が飼育している最中に馬が死んでしまうようなことがあれば農民側が弁償しなければならなかったそうで、もしものことを考えれば農民にとっていいことばかりの仕組みとは言えないのでしょう。青苗法や募役法は自営農民にとってありがたい仕組みでしたが、保甲法は各世帯の貴重な労働力、大切な存在である成年の男性を民兵として国が奪うことにもなる仕組みだったので農民側からは反発も強く、うまくいかなかったのだそうです。

新しい制度への抵抗

軍事政策の二つの制度も含めると六つの仕組みを前回の記事と今回の記事で説明してみました。王さんはこういった制度を導入したわけです。しかし各項目をご覧になればわかっていただけるかと思いますが、保甲法、保馬法は別にして、従来の状況に比べ利益を減らすことになった人たちが出てきます。青苗法では大地主の人たち、均輸法や市易法では手広くやっていた大商人、募役法では新たに農作物を一定割合徴収したり納める役所まで運搬を引き受ける、請負専門業者を雇うためのお金の一部を何の得にもならないのに賄わされたお寺や官僚を輩出している世帯の人たちです。こういった不満を持った人たちが中央政権内の王安石さんがおこなう改革路線に反対するお役人たちと組んで強く抵抗することとなりました。王さんの後ろ盾となった皇帝陛下、神宗(しんそう)さんが亡くなられた後、王さんの始めた制度は中止されてしまったため、王さんの試みは失敗ということになってしまいます。

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今回も宋王朝の時代におこなわれた王安石さんによる改革について取り上げました。この新法という改革で行われた有名な制度については一通り説明することが出来ましたので、二回にわたって扱ったこの話題については今回で終了ということにしたいと思います。私は王さんの改革制度について今回初めて知ったのですが、これまで扱ってきた中国大陸の歴史の中で今回のような試みというのは非常に珍しいように思います。経済的な強者の利益を減らして多くの弱い立場の農民や商人の負担を軽くするなどということは歴代王朝では意識して行われていなかったのではないでしょうか。国内の大土地所有者が中央政権の官職を得るような、経済的強者と政権が関係を深めるような話はあったと思いますけれど。王さんの視点は非常に独特で興味深いと個人的には感じました。有力者や有力者と関係の深い役人からは不評だった新法ですが、宋の国内の多数派は立場の弱い農民や規模の小さな商人たちだったでしょうから社会を安定させるという点では有効だったのかもしれません。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。

江戸時代の名君として有名な方の改革について触れている話「上杉鷹山さんの改革の内容はどんなものだったのでしょう」はこちらです。

日本の戦後間もない時期におこなわれた改革について触れている話「戦後に日本で農地改革をおこなった目的は何なのでしょう」はこちらです。

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