上杉鷹山さんの改革の内容はどんなものだったのでしょう

上杉鷹山さんの改革の内容

 

上杉鷹山(うえすぎようざん)さんは江戸時代に存在していた米沢藩(現在の山形県米沢市地域にありました)の領主だったかたです。米沢藩が出来て9代目の藩主でした。治憲(はるのり)さんという名前でもあります。元々は現在の宮崎県地域に存在していた高鍋藩(たかなべはん)のお殿様の次男として生まれた方で、米沢藩8代目藩主の実のお子さんではありませんでした。8代目藩主の養子として米沢藩と関係することとなります。鷹山さんが養子となった頃の米沢藩は財政状況が非常に悪化していました。上杉家は120万石もの土地の領有を豊臣秀吉さんから許されていた有力大名でしたが、関ヶ原の戦いと同じ時期に徳川家康さんとの対立、関ヶ原の戦いでの西軍の敗北によって領地を大きく減らしてしまうことになります。30万石にまで減ってしまいました。その後米沢藩3代目の藩主が急死したことで後継ぎがおらず急きょ養子を迎えることになるのですが、その時養子を幕府に認めてもらったのはいいものの藩の領地を30万石から15万石にさらに減らされてしまったのでした。領地は減らされても家臣の数を減らすことは出来なかったそうで当然収入に比べて出費がかさみ米沢藩は多額の借金を抱えて苦しむ状況にあったのだそうです。借金の返済も出来ていないことで商人から更にお金を借りることも難しくなるといった困った状態だったにもかかわらず鷹山さんは藩の政治を改革しその財政状況を大幅に改善させたと言われています。そのような功績により鷹山さんの名声は非常に高まり江戸時代の名君として語り継がれることになりました。鷹山さんはどのような内容の政治改革によって藩の財政を好転させたのでしょう。大まかには徹底した倹約や新たな産業の振興、農地開発が挙げられるかと思います。

 

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倹約

 

倹約、藩の出費を切り詰めることで財政状況の改善を図りました。藩主である鷹山さんの身の周りのことで使うお金(食事内容、着ている衣類の費用などなど)を安いお金で済むように改め、従来かかっていた費用の7分の1くらいにとどめるようにしたそうです。一汁一菜とか木綿の衣類を利用したとか節約の具体的な話が伝えられているようです。藩主に家政婦的な役割を果たすために仕える女性の方々の数も5分の1くらいに減らしました。藩主がこのような姿勢を見せて家臣たちにも倹約を実施するよう指示しました。参勤交代の費用も切り詰めたのだそうです。年中行事や神社、お寺に関する出費も切り詰め、贈り物などの禁止も指示したようです。

 

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新たな産業の振興

 

鷹山さんは新たな産業を育成するために以前から栽培されていた桑(くわ)や漆(うるし)、楮(こうぞ)など産業に利用できる植物の栽培を更に奨励しました。桑の栽培と養蚕によって絹の糸を作り絹織物の生産を増やしていきました。漆の栽培の目的は塗料として利用するというよりは収穫される実を使ったロウソクの生産のためだったようです。楮は繊維が太くて長く、丈夫といった特徴を持つ植物で和紙の原料として利用されています。他にも家来に福島県相馬地方で盛んだった相馬焼という陶器の作成技術を学ぶよう指示し、その技術を導入して「成島焼(なるしまやき)」と呼ばれる陶器が作られるようになりました。絹織物、ロウソク、和紙の生産、陶器に代表される特産物によってお金儲けをし、それらの産業から得られる利益を負債の返済に役立てようというわけです。

 

農地の開発

 

農作物の収穫量を増やすことによって藩の収入を増やそうということで、新たに畑や水田にすることの出来る場所を開発し、そこに農業用水を引くための水路を建設するといった農地開発と農産物栽培のための水路建設を意欲的におこなったようです。

 

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今回は江戸時代の名君としてたびたび名前の挙がる上杉鷹山さんの政治改革について一部取りあげました。江戸時代の有名人を取りあげた記事を作ろうと思っていたのですが、鷹山さんの藩政改革の内容について関心が強いようでしたし、先日作った江戸時代の名君に関する記事でも、調べている中で鷹山さんの名前は本当によく目にし、彼がどのような政治をしたのか個人的にも関心があったので今回のようなテーマで記事を作っています。鷹山さんの政治によって米沢藩の借金は減少し鷹山さんの晩年の頃には負債はかなりの割合を返済出来ていたそうです。上で触れたように倹約による支出の減少と産業振興や農産物の増産による収入増が負債削減の要となりました。鷹山さんの政治改革に対し藩内の位の高い家臣たちが強く反発し大きな揉め事になったという話も残っています。従来のやり方を大幅に変えるという時には大きな反発が出てしまうものなんですね。この件で一時期側近が大幅に減ってしまった鷹山さんですが結果を見ると藩政改革は成功したわけですし、鷹山さんの統治は発言力の大きな有力な部下が多数反対しても必要と信じる改革をリーダーが断行することで道が切り開かれたという具体的な事例と言えます。主だった役職の方たちの多数決で物事を決めることは世の中多いですが、そういったやり方では米沢藩の財政状況は救えなかったのかもしれません。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

江戸時代の評価の高い領主について触れている話「江戸時代の大名で名君と言われるのはどういった方々でしょう」はこちらです。

大名が江戸幕府から領地を没収される罰について触れている話「大名の改易で多かった理由には何があったのでしょう」はこちらです。

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