唐の高宗さんはどの様な政策をおこなったのでしょう
唐の皇帝、高宗さんの政策
古代の中国大陸で起きた出来事や大変古い時代に存在していた王朝の歴史、日本とも接点のあった中国大陸の王朝である唐の話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では唐の第三代皇帝である、高宗(こうそう)さんが皇位にあった時代にどのような政策をおこなったかについて自分なりに書いてみたいと思います。とは言いましても、二代目の皇帝、高宗さんの父親である太宗(たいそう)さんがおこなった政治を大きく変更するようなことはしておりません。この二代目の太宗さんの時代に中央集権体制が確立されたそうですが、高宗さんもこの仕組みを継承しました。中央政府の組織が三つの省と六つの部に分けられ政治が実施される、三省六部(さんしょうりくぶ)というのが太宗さんの時代に確立されています。三省というのは尚書(しょうしょ)省、中書(ちゅうしょ)省、門下(もんか)省という3つの部署、六部というのは吏部(りぶ お役人の任免)、戸部(こぶ 財政関連の役所)、礼部(れいぶ 学問や文化、教育関係)、兵部(へいぶ 軍事分野)、刑部(けいぶ 法律関係の事務)、工部(こうぶ 建設土木分野)という6つの部署で構成されています。お役人を採用する時に行う試験である科挙(かきょ)についても、高宗さんの時代に入ってから以降も継続されています。高宗さんの時代に入ってから行われた独自の政策として見かけるのは、永徽律(えいきりつ)という名前の法令を作成させ、公布したということや、唐律疏議(とうりつしょぎ)という名前の書物を作成し世に出したことです。律というのは律令(りつりょう)という用語の、あの「律」で刑法のことです。永徽(えいき)というのは唐の皇帝に高宗さんが即位してからの時代で使用された元号のことです。唐律疏議は唐の刑法である律の注釈書に相当するものです。このように高宗さんの時代に入ってから新たな刑法が付け加えられ、注釈書も編纂されて世の中の人々に守らせる規則をさらに整備していったということになります。そのような法令を作成するよう高宗さんが命じて、それを受けて中心になって事業を進めたのは長孫無忌(ちょうそんむき)という人です。長孫が姓です。鮮卑民族系のかただそうで、高宗さんの父親、太宗さんの時代から大変重用されていた皇帝の家臣でした。唐の歴史、重要行事の作法などの編纂にもかかわった方だそうです。他に高宗さんは儒教の基本とされて尊重されている教典である「五経」の注釈書を完成させたということでも有名なようです。
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他国との間の動向
三代目の皇帝、高宗さんは他の国に対しどのように関わっていったのでしょう。高宗さんの場合も先代の太宗さんの場合と同様、他国と戦い自国の領土を拡大させていく路線を継続しました。太宗さんや高宗さんが皇帝だったころの唐の周辺には、唐の北側には東突厥(ひがしとっけつ ひがしとっくつ)という国があり、その東突厥の西側には西突厥がありました。突厥はユーラシア大陸内陸で東西に細長い地域を支配していた国で、東突厥は現在のモンゴル地域、西突厥は現在のカザフ共和国などがある中央アジア地域に存在していました。また唐の西側には吐蕃(とばん)という国が存在していました。チベット高原地域に存在していた国で、チベット人が様々なチベット内の部族を統一して誕生させた国です。朝鮮半島や旧満州地域には唐王朝が誕生した時期には朝鮮半島北部と旧満州地域に高句麗が存在し、朝鮮半島の南部には西側に百済(くだら)、東側に新羅(しらぎ)という国が存在していました。太宗さんが皇帝の時代には先ほど書きました、唐の北側に存在する東突厥と戦い、東突厥側が一枚岩となって戦うことが困難だったようで、唐は紀元後630年にこの国を滅ぼしています。一方、唐の西側に存在していた吐蕃については、唐が戦いに勝利し吐蕃を服属させたという指摘もあるものの、当時の時代には珍しく対等な関係で交流したという見方もあるようです。また、太宗さんの時代に高句麗と戦っていますが、唐は敗退し朝鮮半島に影響力を広げることは出来ませんでした。肝心の高宗さんの時代に入ってからの動向ですが、先代が東突厥を倒しモンゴル地域を支配下におさめた後、高宗さんはさらに西方に支配地域を拡大します。東突厥の西側に存在していた国、西突厥を紀元後650年代(西突厥が倒された年が652年だという指摘や657年という見方もあるようなのでこのように表記させていただいてます)に倒し、支配下とします。また、旧満州地域、朝鮮半島でも動きがありました。先代が高句麗を滅ぼすことが出来なかったことから、まず朝鮮半島南部西側の国、百済を攻めることにします。大軍(10万人以上)を用いて海と陸から攻略し、唐と同盟していた新羅も百済に攻め入り、紀元後660年に百済は滅亡しました。百済は滅亡するのですが、その後百済の残党と日本の軍勢が百済の再興を目指し唐と新羅に戦いを挑みます。有名な白村江の戦いですが、この戦争で百済の残党と日本の連合軍は敗れてしまい百済という国は朝鮮半島から消えてしまいます。百済のいなくなった朝鮮半島では新羅の力が増し、高句麗は唐と新羅の二勢力と正面から対峙しなければならない状況となり紀元後668年、ついに高句麗は滅ぼされてしまいます。こうして高宗さんは旧満州地域と朝鮮半島を支配下に置くことに成功しました(新羅は高句麗攻略の時期、唐の属国状態でした。ただ、後に新羅は唐に反抗することになります)。このように高宗さんの時代に唐は影響力を中央アジアや旧満州地域や朝鮮半島にまで広げることとなりました。
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配偶者に関する判断
高宗さんの配偶者、皇后となった人は王(おう)皇后という方でした。先代の太宗さんに親族のかたが、まだ一領地の領主であった時代の高宗さんの奥さんにということで推薦した女性だったそうです。ただ高宗さんとの間にお子さんが出来ず、しだいに高宗さんの寵愛は王皇后さんから別のお后、側室に移っていきました。蕭淑妃(しょうしゅくひ)という側室です。皇后の立場としては皇帝の気持ちがこの蕭淑妃に移ってしまうのを防ぎたいという思いから、当時尼僧となっていた女性を宮廷に呼び寄せることとします。呼び寄せられた女性はかつて先代の太宗さんの女官、下級の側室となっていた武照(ぶしょう)という人です。呼び寄せられた理由は高宗さんがかつてこの武照という女性に大変魅かれていたからです。武照さんを高宗さんに近付けて蕭淑妃さんへの思いを薄れさせるという王皇后さんの目論見はうまくいったのですが、かといって高宗さんの気持ちが再び王皇后さんに向くわけでもなく、高宗さんは武照さんをすごく尊重するようになっていきます。一時は皇帝(先代の太宗さん)の側室となってはいたものの、その皇帝が死去した後は尼僧となっていた武照さんですので、これは大変な出世です。一方王皇后さんの当ては外れたということになります。これだけで終われば王皇后さんは皇帝から以前ほど尊重されなくなって残念でしたねという程度でありますが、話は王皇后さんにとって不利な方向へと更に進んでいってしまいます。高宗さんが側室、武照さんを大切にするあまり、武照さんはこの状況を利用して大それたことを皇帝に求めるようになりました。自分を皇后、正室にしてくれと言うのです。そうなれば王皇后は当然皇后の座から降りなければならなくなるのです。当然そういったことも承知で皇帝に求めているのですから、武照さんも相当図に乗っていたのでしょうし、こういう要求をしても皇帝は自分を宮廷から追い出しはしないという自信があったのでしょう。高宗さんが重臣に相談したところ、反対意見も出ていたようですが結局、王皇后さんは皇后の座を失い、代わりに新皇后にとして武照さんがおさまるのでした。この件については皇帝のおこなった政策というほどのものではないという方もおられるかもしれませんが、皇帝が下したこの判断は後々唐王朝に大変な影響を及ぼすことになるので敢えて書かせていただいております。
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今回は唐王朝の三代目皇帝、高宗さんの政策について取り上げました。以前の記事では建国した李淵さんに関係する内容を取り上げたので、順番から言えば次の代の太宗さんに関する話となるところですが、一般的にあまり関心も持たれていないようなので、一つ飛ばして高宗さんに関する記事にしてみた次第です。太宗さんに倣って国の仕組みを法律整備という形でさらに固めていったということと、先代が成し遂げられなかったいくつかの周辺諸国を倒すことに成功し支配領域を拡大させたというのが高宗さんの時代に関して挙げるべき特徴なのかなと、記事を作っていて思いました。この高宗さん、もちろん太宗さんのお子さんではあるのですが、ご長男ではありません。三男でした。長男、次男の方々はなぜ後継ぎとならなかったのでしょう。長男さんは日ごろの振る舞いが悪く、わがままな度合いが強すぎ、謀反の疑いがあったことも理由となって廃嫡されたという指摘もあるようですし、太宗さんに可愛がられていた次男のかたに皇位を奪われないよう長男さんが次男さんの命を奪おうとして失敗し、長男さんを皇位につけても次男さんを皇位につけてもお互いの命を奪い合うことになるので両者とも後継者にしなかったという話もあるようです。太宗さんが後継ぎを誰にするべきかすごく悩んで出した結論が三男さんの高宗さんでした。高宗さんの場合、隋の煬帝さんの様な国費を浪費する振舞いをしたという話は見かけることがありませんでした。また、対外的な対応についても国を傾けてしまうような大きな失敗はしなかったように見えます。無難なかじ取りといった感じで。実際、武照さんの影響力は拡大したようですが、高宗さんがお亡くなりになるまで唐王朝の中央政権に著しい変化は生じませんでした。しかし問題は高宗さんがお亡くなりになった後から目立っていきます。高宗さんの配偶者に関する判断が裏目に出てしまうのです。皇帝の奥さんともなると、単なる配偶者として話が片付かず国そのものを揺るがすことになってしまいます。太宗さんの悩みに悩んで出した結論(高宗さんを後継ぎに決定)にもかかわらず、そのような事態を招くことになるわけですから現実というのは意地の悪いものです。あの世で太宗さんも高宗さんもひどく落胆したことでしょう。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。
短期間で滅んだ王朝の政策について触れている話「前漢王朝と後漢王朝の間にはどの様な時代があったのでしょう」はこちらです。
日本の政権がわざわざ遣唐使を派遣した理由について触れている話「古代の日本が遣唐使を派遣した目的は何だったのでしょう」はこちらです。
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