唐王朝が混乱したり衰退した理由は何だったのでしょう
唐が混乱、衰退した理由
中国大陸の古代の出来事やかつて存在した国、王朝の歴史、また、日本も何かと関係があった唐という国にまつわる話について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では紀元後618年に大陸で誕生した王朝、唐が内部で混乱した理由や国力が衰退した理由について自分なりに書いてみたいと思います。このサイトでは直近の記事で唐を建国した人物について触れた内容や三代目の皇帝、高宗(こうそう)さんが在位中におこなった政策などについて触れた内容を扱いました。中央政府の仕組みを整えて、法整備もおこない対外的には周辺のいくつかの国を滅ぼして支配下に置いたりと、影響力を拡大、強めるという点で唐は発展の道を歩んでいました。しかしそのような中、国の政治に関する重要な権限が一般的に見て正常に移譲しないような、混乱した状況となったり、国力が衰えてしまったりするという時期がその後到来してしまいます。押しも押されもしないような大変な大国であった唐がどうしてそのようなことになってしまうのでしょう。唐国内の混乱については理由として皇帝が配偶者の立場にどのような人物を選んだのかということが大いに関係していると考えられますし、唐が衰退した理由については建国以来おこなっていた国内統治の仕組みにゆがみが出たり、制圧するのが大変困難な反乱が発生してしまったことなどを指摘する見方が多いです。また、その反乱が発生した理由の一つとして当時の皇帝が大変尊重したお后の関係する一族が政治の分野で大変大きな発言力を持っていたことが挙げられます。混乱した理由にも国力が衰退した理由にも唐の時の皇帝のかたが尊重、大切にした異性の存在が多かれ少なかれ絡んでいるのは間違いのないところだと言ってよいでしょう。以下の項目で唐国内が混乱した理由や唐の中央の力が衰退した理由について、もう少し書いてみたいと思います。まずは唐を混乱させた配偶者の件から参りましょう。唐が発展していた頃の皇帝である高宗さんのお后、前回の記事でも触れました、武照さんの話です。
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唐が一時期混乱しました
前回の記事でも触れましたが、三代目の皇帝、高宗さんは最初に王(おう)皇后という女性を親族のかたの勧めで正室とします。ただ後継ぎとなるお子さんがお生まれにならないという状況でした。高宗さんの寵愛は王皇后さんから別のお后、蕭淑妃(しょうしゅくひ)へと残念ながら移り変わっていたそうです。この状況に我慢ならない王皇后が二代目皇帝、太宗さんの関係者を宮廷に迎えるという話を容認しました。その関係者とはかつて太宗さんの側室となって、太宗さんが死去された以降は尼僧となって生活していた武照(ぶしょう)さんという女性でした。もともと高宗さんからは武照さんを自分の側室にしたいという意向は示されていたそうです。かつて高宗さんがこの先代の側室だった女性に大変魅かれていたのを知った王皇后さんが蕭淑妃さんに向かった高宗さんの寵愛を他へ向けさせるためにこの話を許容したわけです。高宗さんは武照さんに夢中となり蕭淑妃さんは遠ざけられていきました。しかし王皇后自身もさらに高宗さんと接する機会が減っていきます。武照さんは自分が皇后になりたいという野心を持ち、高宗さんの一部の側近がそれに呼応して王皇后さんから皇后の座を取り上げ、新たに武照さんを皇后にする案が出されました。重臣の中には反対する意見もありましたが結局高宗さんは武照さんを新皇后にしてしまいます。その後王皇后さん、蕭淑妃さんは罪を着せられ武照さんはこの二人をむごい方法で処刑したそうです。皇后の座をつかんだ武照さん。病気持ちだった高宗さんの代わりに武照さんが政治を動かすようになるまで台頭しました。武照さんのお気に入りばかり重用した好き勝手な政治が目に余るようになって武照さんのことが大好きだった高宗さんもとうとう彼女に見切りをつけて皇后の身分を奪おうとしますが、武照さんに察知され阻止されてしまいました。武照さんが政治をおこなうのが常態化した中、高宗さんはこの世を去ります。しかしここで非常に奇妙な事態となります。高宗さんの跡を息子さんが継ぐことは継いだのですが、そのまま息子の方々が皇位にとどまるものと思いきや、高宗さんの息子さんたちから皇位を奪い武照さん自らが皇位を手にし、君臨することとなってしまいました。武照さんが病弱となって政務に携われなくなった後はまた唐という国号が回復したものの、それまでの間は国の名前を「周」に変更し武照さん中心の政治がおこなわれてしまいます。政治の分野で才能を発揮することによって国としての力が衰えるようなことは無かったとする見方が多いですが、武照さんの存在によって唐という国が本来あるべき姿(高宗さんのお子さんが皇位を継承し国を動かすという状態)からかなり変化し混乱してしまったのは間違いないでしょう。
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唐が更に衰退した理由
この武照さんの時代から少し経過した紀元後712年に玄宗(げんそう)という人物が9代目の皇帝となります。武照さんから政治の権限を切り離すことが出来た後も中央政府では時の皇后やその一族が政治的な権限を手に入れようとして皇族の人々との間で争いが起きてしまい、混乱が続いてしまいました。それに終止符を打ったのが玄宗さんです。玄宗さんが皇帝となって国を率いた時代の前半は比較的平和だったために、玄宗さんの政治を開元の治(かいげんのち)と呼んで称賛する向きもありました。しかしこの玄宗さんが皇位にまだあった時期に国内で反乱が起きてしまいます。安史の乱(あんしのらん)と呼ばれることになる出来事で、中央政府から現在の中国の行政区域で言えば山西(さんせい)省や山東(さんとう)省、河北(かほく)省や遼寧(りょうねい)省の一部にあたるような地域(中国の北部ですね)の守備を任されていた人物、安禄山(あんろくざん)という人が中央に反旗を翻し国内の重要都市である洛陽(らくよう)に侵攻し、一時は唐の軍を破って都である長安(ちょうあん 現在の西安)を攻め落とすようなことまでしてしまいました。一定の地域を支配する立場となり、自らを皇帝と位置づけ大燕(だいえん)という国を誕生させてしまいました。この動きを唐の軍勢が止められれば良かったのですが、最終的にこの反乱を(一応)収めたという形に繕うことが出来たのは紀元後763年で、反乱が発生した紀元後755年から8年も待たねばなりませんでした。そのあとも一部地域ではこの反乱勢力が幅を利かせていたそうです。一時国の重要都市を奪われたうえに、地方で発生した反乱を制圧するのに長い期間を必要としなければならなかった唐という国の実力の無さ、弱さがこの出来事で明るみになってしまいました。当時中央アジアには新たにトルコ系民族によるウイグルという国が誕生していたのですが、安史の乱で反乱軍を倒す際に援軍を送ったいきさつがあり、唐がそれほどの強国でないことを見透かしたこともあって毎年高価な品物を唐の中央政府に要求するようになりました。唐の西側で隣接するチベット系の国、吐蕃(とばん)も唐を軽く見るようになり唐の域内に侵入するようになります。おまけに地域を守備する役目を唐の中央政府から任されている、軍勢の司令官のような立場であった節度使(せつどし)というお役人の中から地域で徴収した税を中央政府にきちんと渡さないような者も出てきてしまいました。唐の中央を舐めていたのでしょう。唐の中央は財源をしっかりと得ることもままならなくなり以前に比べて衰えていきました。
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今回は唐王朝が混乱したり衰退した理由について一部取り上げました。前回の記事では三代目皇帝、高宗さんの政策というテーマとし、唐という国が周辺国を倒して影響力を拡大していったことにも触れた、上り坂な時期の内容となりましたが、そのような唐も結果的には滅びます。滅びるまでの過程でどの様なことが起きて弱くなっていったのか原因を確認したいため今回の様なテーマの記事にしてみました。今回扱った安史の乱のように中央政権側が軍事力を行使して失敗すると「唐の中央はそれほど大したことが無いね」と軽んじる動きが出てきてしまうというのは無理のないことなのかもしれませんが、世の中で軍事力がそれくらいモノを言うということになりますから現実の世の中は冷酷だと感じさせられます。節度使は大勢の傭兵を抱え、軍事だけでなく地域の財政に関する権限も持っていたそうですから、経済的にも強くなり、私兵を抱えることも出来たのだそうです。節度使をきちんと従わせられなくなったのは唐の中央が節度使を信用しすぎて力を与えすぎたからだったということでしょうか。安禄山という人が決起した理由については、決起時に楊一族を政権から排除することを大義名分としたそうです。玄宗皇帝の時代、玄宗さんはお后の楊貴妃を非常に尊重し、彼女の一族、楊一族の人々を取り立てて政治をおこなっていました。楊一族の代表的な人物、楊国忠という人は安禄山を敵視していたそうで、玄宗皇帝に安禄山さんの印象が悪くなる情報を入れ、玄宗さんと安禄山さんの関係を壊しにかかりました。安禄山が謀反を起こそうとしていると玄宗さんに吹き込み、それを信じた玄宗さんが安禄山さんを都に呼び出し問いただそうとしたことで、安禄山さんは落胆し安史の乱のきっかけになってしまったという見方もあるそうです。安禄山さんはこうなったら反乱を起こしてでも生き残ろうと一か八かの勝負に出たのかもしれません。安禄山さんが本当に楊国忠の言った通り謀反を企てていたのかわかりませんが、もし偽りであったのなら恐ろしい話ですね。悪意を持った人間による偽の情報を時の権力者が信じ込み命を奪われたり失脚させられたらたまりませんが、国の政治を動かすような場ではそういったことも珍しくはないのでしょう。日本の話ではありますが長屋王さんや菅原道真さんなどといった方々はそういったはかりごとの被害者として有名です。こういった話を見かけますと政治の世界を平穏無事に歩んでいくというのはすごく難しそうに感じます。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事では写真ACで提供されている画像を使用させていただいております。
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