足利義教さんが関係する比叡山の焼き討ちとは何なのでしょう
足利義教さんの名が出る比叡山焼き討ち
室町時代の歴史に関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では私なりに足利義教(あしかがよしのり)さんが室町幕府の将軍を担当していた時に発生した比叡山(ひえいざん)側との対立について書いてみたいと思います。この記事の題として「焼き討ち」という表現を私は使用しましたが、これは正確ではないかもしれません。足利義教さんが部下に命令して比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちしたということではどうやらないようです。対立して比叡山のふもとの町に火をつけるといったことは義教さんの指示で実施されたようですが、お寺を火攻めにしたということではありませんでした。むしろ足利義教さんの対応に猛烈に抗議して延暦寺の関係者の一部がお寺の建物に火をつけるなどして焼身自殺をおこなってしまったということはあったようです。ふもとの坂本という門前町(もんぜんまち)に対して火をつけるなどの攻撃をしたのであって比叡山延暦寺の焼き討ちとは少し異なるということについては念のため書いておきます。でもこれも広義で比叡山焼き討ちということになるのでしょうかね。門前町というのは有力な宗教勢力の拠点の周辺に出来た集落のことを言います。お寺自体を焼き討ちにしたわけではなかったのですが、だからといって義教さんが穏便な方法によって比叡山延暦寺との対立関係を解消したということではありませんでした。
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幕府側を刺激するようなことはしていたようです
古くから宗教的な権威でもあり、それだけではなく大勢の僧兵を抱えて武力もあり、流通の業界に進出して利益を得たり荘園を所有したりしていて経済的にも豊かであった延暦寺は政治をおこなっている機関(朝廷だったり幕府だったり)に対して何かと強硬に要求するようなことをしていました。影響力のある存在だったので義教さんが率いていた時の幕府は自分たちの側の人間を天台宗(比叡山延暦寺の宗派)の偉い立場にすえるようなことなどもしてなるべく延暦寺を取り込むようにしたかったようです。こういった幕府の関わり方に反発したのか延暦寺側から幕府の役人の不正を糾弾するような動きが出てしまいます。将軍の側近の進言があったり、役人の不正が弁護のしようがないものだったからなのか、延暦寺側の要求に沿った裁きを幕府もおこないました。しかし幕府側を延暦寺が糾弾した際に園城寺という延暦寺と関連の強いお寺があるのですが、そのお寺は幕府糾弾に協力しなかったという理由で延暦寺の勢力が園城寺を焼き討ちして攻撃するような過激なことをしました。義教さんはこの延暦寺の動きについては見過ごさず、園城寺側と幕府が協力し兵を動員して延暦寺に圧力をかけ(取り囲んだりしたそうです)、延暦寺を降伏させたそうです。幕府と延暦寺が一旦仲直りすることになりました。
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仲直りするつもりが無かったのか・・・
しかしこれで収束したら義教さんが比叡山の門前町を焼き討ちする必要がありません。その後も問題が起きました。本当なのかでっち上げなのか不明ですが延暦寺が義教さんに呪いをかけているという噂が出たということを理由に幕府が延暦寺の経済的な利権を取りあげるような対応をおこないました。延暦寺は反発して集団で京に行き幕府を糾弾したのですが幕府側が延暦寺の勢力を追い払い、反対に比叡山の門前町、坂本を攻撃する態度に出ました。延暦寺が降伏する姿勢に出たことを理由にそれ以上の弾圧を控えるよう強く進言する側近のはたらきかけもあって義教さんは二度目の仲直りを延暦寺側とおこないました。形式上仲直りすることにしたわけですが、でもその後義教さんは延暦寺の関係者と面会するために呼びつけた時に処刑してしまうという非常に厳しい処置をしてしまいます。延暦寺側は態度を硬化させ幕府のやり方を批判する目的で延暦寺の一部に火をつけて焼身自殺をおこなう僧侶も出てしまったそうですが抵抗もそこまででした。こういった義教さんの強硬な対応もあって義教さんが将軍だった時期は延暦寺も幕府を刺激することはなくなりました。
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今回は室町幕府の将軍足利義教さんと比叡山の対立について一部取りあげました。暗殺されてしまった将軍ということで教科書に紹介されていたのを目にして義教さんに関して調べていたのですが、この方が比叡山の焼き討ちをしたなどといった話もあるらしいということを知りました。織田信長さんが比叡山を焼き討ちした話は有名ですがあまり義教さんが比叡山を攻撃した話はそれまで耳にしたことがありませんでしたし、何を理由に義教さんが比叡山を攻撃したのか理由を確認してみたく、今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。比叡山の話に限らず、義教さんは幕府の従属下にあった地方の勢力や関東に存在した幕府の機関の責任者などに対してもすごく厳しい対応をすることがあったかたで、先ほど触れました延暦寺の関係者を処刑した件のように、暗殺されてしまったかたも結構おられたようです。そんな冷酷な手法を用いてでも幕府の体制を強めようとした義教さんでしたが、配下にあたる勢力の人物に襲撃されてお亡くなりになりました。室町幕府八代将軍、足利義政さんや15代将軍足利義昭さんの時代は将軍に政治的な権限があまりなかったような印象がありますが、それよりも前の時代には義教さんのような、強い権限を持った、人々からすごく恐れられるような将軍もいらっしゃったんですね。ただ義教さんの亡くなり方に関しては因果応報なんていうことを強く信じているわけではない私でもそういった考え方を連想してしまいました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。
<(_ _)> ※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
今回の記事ではあけびさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。
信長さんの時代の比叡山焼き討ちについて触れている話「信長さんが比叡山を焼き討ちにした理由は何だったのでしょう」はこちらです。
平安時代以降の一部宗教勢力の振る舞いについて触れている話「僧兵と言われる人々がおこなった強訴とは何なのでしょう」はこちらです。
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