日ソ基本条約の内容は?締結された背景や双方の全権についても
日ソ基本条約の内容は
日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は西暦1925年(大正14年)に日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間で締結された条約です。この条約が締結されたことにより日本とソヴィエトの間で国交が結ばれることとなりました。この条約では日本とソヴィエトとの間で外交関係を成立させること、ロシア帝国時代に日本と締結した日露戦争の講和条約である、ポーツマス条約の内容が日本とソヴィエト両国は引き続き有効だと認めること、過去に日本とロシアの間で締結された漁業に関する条約に関して状況が変化してきているので内容を改めること、日本、ソヴィエトの両国民は相手国の法規則に従い、お互いの国で旅行したり滞在する自由や身体、財産の安全が保障されること、両国民はお互いの国で私有財産を持つ権利や貿易、航海、企業活動など平和的な業務を行う自由がその国の法令に従って与えられること、国際貿易に関する制度を定めるにあたってお互いの国の権利を侵害しないようにすること、お互いの国の経済の向上、交流の増加を妨げないようにすること、お互いの国との平和友好関係を維持すること、お互いに自国の法に従って自国の社会の秩序を守る当然の権利を尊重すること、大っぴらであろうと隠れてであろうとお互いの国の秩序や安定を乱すことの無いようにし、相手国国民がお互いの国で政治上の活動を行う事を許さないこと、経済関係を深めたり日本側の天然資源に関する需要といった事情からソヴィエト側はソヴィエト国内の鉄鉱資源や森林資源、その他の天然資源を開発する利権を日本側に与えることを許可する意向を持つなどといった内容が記されています。またこの条約が結ばれたのと同時に樺太北部にある油田の権益や樺太北部を占領している日本軍が現地を撤退する件に関しても協議されました。その結果日本軍は占領した樺太北部から撤退し、樺太北部の油田の開発を行う権利の50%を日本側に与えることが約束されました。
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日ソ基本条約が締結された背景
もともと日本は社会主義革命を起こしロシア帝国の皇室制度を廃止して皇族の方々を殺害するような政治勢力は日本の体制として、とてもではないけれど受け入れられるものではないと考え、ロシア革命に反対するために革命干渉、革命行為を阻止するための戦争にも参加してきました。その過程で革命側の武装勢力に多くの日本人が殺害される「尼港事件」も経験し革命勢力に対する感情は決して良くありませんでした。しかし日本国内の経済界や漁業関係者から以前のロシアとおこなっていたような経済活動、漁業活動が出来なくなっていて困っている、何とかしてくれという圧力が政府に加えられるようになっていきました。財界からの要望を無視し続けることもできなかったようです。また、当時ソ連と中華民国は国交がありました。いつまでもソ連と関係が良くないままですと日本が保有する満州地域の利権に関しソ連が日本側と敵対的な立場をとってしまい、国際的に更に不利な状況になってしまうことも心配されていたそうです。ロシア国内で革命勢力が挫折する様子は無かったので、以上のような理由もあり国交正常化に日本政府も動くこととなりました。
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条約締結の交渉にあたった双方の全権
この条約を結ぶための交渉にあたった全権は、日本側が芳澤謙吉さん、ソヴィエト側がレフ・ミハイロヴィチ・カラハンさんという方々でした。芳澤さんは当時中華民国に駐在する外交官だったようです。東京帝国大学を卒業後外務省に入り省内で活躍します。この日ソ基本条約が結ばれた後にフランス駐在の大使となったり、1932年には外務大臣を務めることとなったかたでもあります。カラハンさんは20代後半になって社会主義政党に入り革命側として活動し、1918年以降は外交分野で活躍したようです。中華民国との国交正常化にも関わりました。この日ソ基本条約が結ばれた後もカラハンさんは外交分野で仕事をすることになりますが、ヨシフ・スターリンがソヴィエトを支配する時代となった後にスターリンによる虐殺に巻き込まれ、この方は犠牲となってしまいました。逮捕、処刑されています。
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今回は日ソ基本条約について取り上げてみました。ワシントン会議で全権も務めた協調外交の象徴的な人物である幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)という人が外務大臣を務めていた時代に実現した有名な出来事ですし、君主制の国である日本が天敵とも思われるソヴィエトと何故国交を結ぶという決断をしたのだろうという疑問が湧いたため調べてみることにしました。政治体制としては当然警戒するべき対象国なのですが、交易や漁業、満州地域の権益といった経済的な事情が国交正常化の動機となったようですね。警戒する相手だということの証拠として日本国内の治安を維持することを目的とした法律、治安維持法がちょうど同じ時期に出来ることになります。国交を結ぶことで日本国内に革命思想が入り込む危険性が強まると日本政府側も考えていたのでしょう。政治的には手を結びたくない相手でも国内経済界からの圧力で節を曲げて仲良くしなければならないようなことってあるものなのですね。この事実を見ると経済界、財界の意向というのは政治に強い影響を与えるような構造になっていたようです。今の世の中でもそれは変わらないことなのでしょうか。政治がこれからどう動いていくのかを推測する時には経済界、財界の主張を調べてみると参考になるのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
この条約が出来る前は戦っていました。関連記事「日本のシベリア出兵とは?当時の内閣や出兵の結果についても」はこちらです。
その過程でとんでもないことも発生しています。関連記事「尼港事件(にこうじけん)とは?この事件への報復についても」はこちらです。
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