日本のシベリア出兵とは?当時の内閣や出兵の結果についても

日本のシベリア出兵とは

 

日本政府が実施したシベリア出兵(しべりあしゅっぺい)とはロシアの政治権力を握る結果となったマルクス主義を信奉する政治勢力、ボリシェヴィキを倒すことやロシア国内から出ることの出来ない状態となっているチェコスロバキア人を救出する事を目的に兵員をロシアのシベリア地方に派遣した軍事行動のことです。マルクス主義というのは社会主義思想の一つで、生産手段となるお金や設備、工場などの個人所有を認めず、社会全体の財産とし、階級の無い社会を作ろうという考え方です。チェコスロバキア人の人々は第一次世界大戦中オーストリア=ハンガリー帝国の兵員として戦っていましたがロシア帝国との戦闘で捕虜になっていた人たちもたくさんいました。この捕虜となっていたロシア国内のチェコスロバキア人をロシア帝国の意向でチェコスロバキア人捕虜で構成した部隊を編成し、ロシア国内を出てロシア帝国やイギリス、フランスといった連合国側に立ってチェコスロバキア地方の独立のためにチェコスロバキア地方を支配しているオーストリアやドイツ帝国といった同盟国側と戦わせる考えでした。しかしロシア国内で革命が起こってしまい、ロシアから出ることが出来なくなってしまっていました。このチェコスロバキアの人たちを救出しようという機運が連合国側で高まっていきます。シベリアとはロシア国内にある大きな山脈、ウラル山脈から東側、東アジアの太平洋沿岸までの広大な地域を指します。ウラル山脈はロシアの首都モスクワから1500kmほど(1500kmはポーランドからロシアの首都モスクワまでの位の距離です)東に行ったところにあります。この出兵についてはシベリア地方に大勢の兵員を派遣したいものの戦争中ということもあってそれが出来ないイギリスやフランスから日本への働きかけがあったことがきっかけとなっています。1918年の8月に日本政府はシベリア出兵を宣言しその後間もなくロシアの日本海沿岸の都市ウラジオストクに上陸することとなります。

 

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シベリア出兵を決定した当時の日本の内閣

 

この出兵を決めた日本の当時の内閣は寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣です。第二次大隈重信内閣が予算案を理由に貴族院と対立が激しくなったことや在任中の総選挙で政府が選挙に干渉し不正が行われていたことで批判が強まっていたことなどから総辞職した後に発足しています。内閣が発足したのは1916年(大正5年)10月のことです。最初日本のシベリア出兵について大陸で領土を拡張する野心があるとアメリカが疑っていたので、日本はイギリス、フランスの提案を一旦断りました。しかしその後イギリス、フランスが日米共同の出兵という話を提案したので、それではということで日本も動くこととなったそうです。日本政府の中ではアメリカが疑うような大陸進出(シベリア地域での権益の獲得)のため単独でもシベリアに出兵しようという意見とアメリカと歩調を合わせた軍事行動にとどめようという意見が対立していたそうです。

 

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日本のシベリア出兵の結果

 

結果から言いますと非常にうまくいかなかった軍事行動だったようです。非常に寒さの厳しい環境だったため日本の軍隊は対応しきれなかった面があったようです。また当時ロシア国内の政治権力を握っていたボリシェヴィキを支持する人たちは多かったようでボリシェヴィキ支持の人たちが日本軍に対しゲリラ戦を仕掛けこの点も日本軍は苦慮したようです。また共同で出兵したアメリカの軍はそれほどシベリア地域でボリシェヴィキ勢力の制圧に熱心ではなかったそうで、チェコスロバキア人の救出が成功した後は出兵の目的は遂げたということで撤兵してしまいました。社会主義勢力のアジア地域での拡大を防ぐということに関して、アメリカ側はそれほど熱心ではなかったという指摘があります。このような諸事情があり日本軍はシベリアの東側のまとまった地域を占領統治することも出来ないまま1922年に撤退することとなります。撤退に関しては1920年に撤退したアメリカが、その後も出兵を続けていた日本に対し圧力をかけたことが理由となっているようです。樺太の北側には1925年まで駐留していたそうですが。このシベリア出兵という軍事行動で日本の兵員は3000人以上の方々が犠牲になり、出兵のための費用も当時のお金で10億円という大変な額になりました。経済的な視点からすると損失が多かった軍事行動のようです。

 

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今回は日本が実施したシベリア出兵について一部取りあげてみました。ロシア革命に対する干渉戦争の一つだそうですし、干渉戦争に日本がどのように関わったのか、他の国と比べて関わり方に違いがあったのか確認したく調べてみたのです。日本のような君主の存在する国にとってはロシアでの社会主義革命は到底容認できない話ですし、そのような社会主義勢力が日本のすぐ隣で活動したらその影響を日本も受けやすくなってしまうに決まっています。ですから日本と社会主義ロシアの間の出来れば広い地域に、是非ともロシア帝国の流れをくむ政権が誕生してくれればなぁという希望を日本は持っていたことでしょう。でも共同出兵したアメリカは元々君主制の国ではなく共和制の国ですし社会主義の恐ろしさを人類はまだ体験していなかったのでロシアの社会主義勢力を倒すことに関しても懐疑的だったという指摘もあるようです。共同出兵した相手がこのような感じでは確かに事を上手く運ぶことも難しそうですね。シベリア出兵した日本に現地のロシアの人たちが大変協力するような展開であったらこの軍事行動は上手くいったのかもしれませんが、社会主義勢力がゲリラ組織を作って好き勝手出来る状態だったということですから、社会主義勢力に協力的だった現地の人も多かったのかもしれません。日本側はどれだけ地元のロシアの人たちに政治宣伝をしたのでしょう。この出来事を調べていて特にそういう方面の話は今回目にしませんでした。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

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