中国大陸の港湾都市、上海の租界はなぜ誕生したのでしょう

中国の上海にかつて存在した租界はなぜ設置されたのでしょう

日本や中国大陸の歴史、日本や欧米各国が中国大陸内に現在の感覚からすると非常識な権益を保有していた頃の出来事について関心を持たれてこのページに来られた皆様、こんにちは!この記事では日本の近代化以降の歴史で出てくることもある、中国大陸の海に面した大都市の一つ、上海(しゃんはい)にかつて存在していた租界(そかい)について、なぜ設けられることになったのか私なりに書いてみたいと思います。租界というのは他国の人々が生活するために利用する居留地区のことを言うのですが、現在の世界の感覚からすると非常に違和感があるかと思われる特徴としてその居留区の運営が居留区の存在した、例えば清国や中華民国の政府によっておこなわれるのではなく、その居留区を清国、あるいは中華民国あるいは個人から借り上げている国によっておこなわれていた、政治をおこなう権限が居留区の該当国にあったということがあります。清国や中華民国は口を出したくても出せなかったんですね。本来は自分の国の領土であるはずなのに。大使館、領事館なんかは現代でもかなり権利が確保されているようですが。この記事では上海の租界について扱いますが、中国大陸には他の都市にも租界が設置されていました。多くの日本人が甘栗や中華料理のメニュー名で天津(てんしん)という都市の名前を耳にされたことがあるかと思いますが、現在の中国の首都、北京に近い港湾都市、天津にも租界が置かれていた時代がありました。中国大陸内に計八カ国によって二十カ所以上の租界がかつては置かれていたそうです。そんな中国大陸の租界の中でも有名な上海の租界、日本人もたくさん生活していたらしいですが、なぜ上海の租界は設置されたのでしょう。最初に上海に租界を置いたのは英国なのですが、英国が上海に租界を置いたきっかけはアヘン戦争に勝利したからだと言えるでしょうし、その後アメリカやフランスが上海に租界を得ることとなるのは清国との間でいわゆる不平等条約を結ぶことに成功したからだと思われます。

イギリスと清の戦争で

アヘン戦争と呼ばれる、イギリスと清の間での戦争が天保十一年、西暦1840年に勃発します。清との貿易であまり利益を得られなかったイギリスが自国の勢力圏で生産したアヘンを清に非公式に持ち込んで販売するという行為に出て、清国社会で中毒患者が出るようになったり、清国内から貴金属の銀がアヘン購入の代金としてどんどん流出していったことなどが問題になっていきました。このことでイギリスと清の対立が深まり清国の高官がイギリス商人の持ち込んだアヘンを取りあげて捨てるという手段に出ます。それに反発してイギリスが清に対し武力行使に出て、戦争勃発ということになってしまいました。清もそれなりに応戦したものの、2年後の1842年にイギリスに降伏、敗れてしまいます。戦争を終えるにあたってイギリスと清の間で結んだ条約が南京条約(なんきんじょうやく)でした。この条約であの有名な香港島がイギリスのものとなりましたし、その他にも有名な五つの港湾都市の開港を清国は受け入れなければならなくなります。その都市の一つが上海でした。清国が戦争で敗れたということでイギリスに賠償金も支払うこととなります。上海がイギリスに開かれたことで商売などを理由に上海で過ごすイギリス人が増加することとなりました。イギリス人の居住する地域を設ける必要が出てきたということで、南京条約締結から三年後の1845年、両国間の協議によってイギリス側の権利が大幅に認められた居留区域が設定されることとなります。ということでアヘン戦争が起こっていなければ清国がイギリスの要求に従って上海を開港することもなかったのでしょうし、上海を開港していなかったのであればイギリス人の流入も増加していなかったでしょうから租界を設ける必要も無かったことでしょう(ただその後のイギリス、清の摩擦で何らかの衝突が発生し開港を受け入れなければならなくなったかもしれませんが)。

その後他の国も

清がイギリスとの間で南京条約を結んだあとは清国が交易する一番のお得意さんはイギリスとなり、以前から清と商売をしていた他の国は劣勢となったそうです。しかし清との貿易は非常に利益をもたらしたため自分たちの国もイギリスと同じように清との商売という権益を確保したい。そういう事情でアメリカとフランスが南京条約の二年後、1844年に清との間で条約を結びます。別に清はアメリカやフランスと戦争して負けたわけではありませんが、アメリカとの間では望厦条約(ぼうかじょうやく)、フランスとの間では黄埔条約(こうほじょうやく)を締結。南京条約の内容に準じた内容の条約のため、アメリカ、フランスに対しても上海が開かれることとなって関係国の商人などが流入することとなりました。アメリカ、フランスも自分たちにとって融通の利く居留地域を望み、イギリス同様租界が形成されます。日本もいくらかの日本人が上海で生活していたということなのでしょう。1870年代に上海に日本の領事館が設置されています。ただ上海に滞在する日本人の数が非常に増加したのは日清戦争によって、講和条約である下関条約が1895年に締結され日本が清から最恵国待遇(さいけいこくたいぐう この場合清国が他の国に与える中でもっとも良い待遇を、他の国に劣らない待遇を与えること)を受けることになってからだったそうです。上海の日本人の人口は1895年で1000人未満だったようですが、その後1910年代半ば以降は一万人以上、1920年代後半以降は二万人以上にまで膨れ上がります。支那事変、日中戦争のきっかけの一つとして有名な昭和十二年、1937年の第2次上海事変の頃は23000人以上の日本人が上海で暮らしていました。日本の領事館が存在した上海の一地域、虹口(こうこう)南部では多くの日本人が生活し、公的には日本が租界を設置したわけではなかったものの租界のような居留地域が形成されていったようです。居留民が生活するに伴い、そういった居留民の保護を目的とした各国の軍隊も上海に駐留することとなりました。

今回は上海の租界が設置された理由について一部取り上げました。先日支那事変、日中戦争の際にアメリカが中華民国蒋介石政権を支援した理由について取り上げる記事を作ってみましたが、この日中間の武力衝突が本格的に始まった一つの要因が昭和12年、1937年の第2次上海事変でした。第2次上海事変の時中華民国の軍が上海に駐留していた日本軍を突然攻撃してきたことで上海事変は始まります。上海にどうして日本軍が駐留していたのか、どうして中華民国、日本国以外の別の国の軍隊が駐留していたのかということは各国の大勢の人たちが上海で生活していたから、各国が自国のように政治をおこなうことのできる地域、租界が存在していたからだということだったので、じゃあそもそもどうして租界が誕生したのか確認してみたくなり今回のようなテーマの記事にしてみた次第です。しょっぱなのイギリスに関しては清が戦争に負けてイギリスの要求に応じなければならなくなったからということになりますし、日本についても日清戦争で清が負けて日本に対し良い待遇をしなければならなくなったからということになります。ただ清はアメリカやフランスとの間でイギリスと結んだような条約を戦争に負けたわけでもないのに結びました。アメリカやフランス側からの要求、イギリスと結んだのと同様の条約を我が国とも結んでほしいという要求を清が退けた場合は戦争になってイギリスに負けたのと同じようにアメリカにもフランスにも負けてしまってもっと大きな被害をこうむり、もっとひどい条件を飲まされることになりかねないといった危機感が清にあったからなのかなという気がしました。アメリカは1810年代にイギリスと戦争して勝ったとは言えないまでも大負けして領土をいっぱい取られるような事態にはなりませんでした。フランスもイギリスと1810年代まで戦争して負けたとはいえ、イギリス相手に長期間戦うことのできた国です。両国とも軍事的に強いに決まっていますので清の判断は仕方のないことだったのかもしれません。「自国にとって不利な要求を受け入れなくて済むよう、戦争に敗れないよう、相手が侵略してこないよう、しっかりと自国の軍備を整えないといけない」といった、国が抱える課題は今の時代でも同じなのであろうと思います。

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

今回の記事ではNaokamさんによる写真ACからの写真を使用させていただいております。

アヘン戦争について触れている他の記事「アヘン戦争が発生した原因と戦争の結果、日本への影響について」はこちらです。

清国が複数の国々を相手に戦争してしまった出来事について触れている話「義和団事件、北清事変とは?日本の対応についても」はこちらです。

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