楠木正成さんと後醍醐天皇はどのような関係だったのでしょう

楠木正成さんと後醍醐天皇の関係

 

楠木正成(くすのきまさしげ)さんは鎌倉時代の末期以降の活躍が有名な武士のかたで明治時代以降の日本では特に国民からの尊敬を集めた人物です。たいへん戦が上手なかたで、戦った相手からはとても恐れられる存在だったようです。ただ戦が上手な人物ではあったものの室町時代が始まる以前におこなわれた戦で劣勢に立たされ戦場で自害のような形で命を落としています(身内の方と互いに刺しあい命を絶ちました)。後醍醐天皇は鎌倉時代に即位した天皇で鎌倉幕府が政治をおこなう体制から天皇が政治をおこなう体制に変革することを目指した人物です。鎌倉幕府から危険視され天皇の地位を追われて隠岐の島に流されるような制裁を受けますが、その後反幕府勢力を結集させる中心的な役割を果たし鎌倉幕府を滅亡させることに成功しました。建武の新政(けんむのしんせい)という呼び名で有名な、天皇を中心にして政治をおこなうという後醍醐天皇が強く望んでいた体制を短期間ではありますが実現させます。二者とも大変有名な方々ですが、このお二人の間はどのような関係であったのでしょう。最初は対立する陣営にあったようですが後醍醐天皇側からのはたらきかけに楠木さんがすぐに応じ、それ以降は後醍醐天皇の家来として終生仕え続けることとなりました。

 

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対立する陣営

 

楠木さんは現在の大阪の東部にあたる河内(かわち)と呼ばれる地域の有力者の家に生まれた方だと言われているそうです。鎌倉幕府の配下の立場だったようで関西地域で幕府と対立関係にあった武装勢力の征伐を幕府から請け負ったりもしていました。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとしていたのは西暦1320年代以降です。後醍醐天皇と鎌倉幕府は敵対関係だったので、楠木さんは当初後醍醐天皇と対立する陣営にいたことになります。

 

鎌倉幕府を裏切り後醍醐天皇の家来に

 

後醍醐天皇と関係の深かった僧侶が間に入り楠木さんは後醍醐天皇に拝謁することとなりました。後醍醐天皇側から楠木さんに領地が与えられるようなことにもなり楠木さんは鎌倉幕府に所属する立場から後醍醐天皇の家来へと大きく態度を変えることになります。楠木さんは元弘(げんこう)元年、西暦1331年の幕府と後醍醐天皇側の争いでは後醍醐天皇側の陣営の一員として戦いました。後醍醐天皇が幕府側に捕えられた後も現在の大阪府南河内郡にあたる場所に存在していた赤坂城で幕府軍と戦い続けたそうです。情勢が不利と判断した後は城に火を放って幕府軍側の注意をそらし城からの脱出に成功しました。鎌倉幕府によって後醍醐天皇が隠岐島に流された後も楠木さんは関西地域で幕府の支配領域を攻撃し勢力を拡大していきました。後醍醐天皇が隠岐島を抜け出し幕府打倒を呼びかけたことや楠木さんら反幕府陣営の奮闘などが影響し後醍醐天皇側につく勢力が増え、京の幕府の拠点は幕府の有力武将、足利尊氏さんらの寝返りによって制圧され、幕府の中央、鎌倉も反幕府勢力の支配下となります。鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇は京に入って鎌倉幕府側によってたてられた天皇(光厳天皇)を追い出し、再び天皇の座におさまって自らを中心とした政治をおこないました。幕府との戦いに大変貢献した楠木さんは恩賞、ほうびとしてたくさんの領地を後醍醐天皇から与えられることとなります。新政府の役人の立場にもなりました。

 

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新しい政治がおこなわれ

 

後醍醐天皇による政治は鎌倉幕府を倒すことに協力した多くの武士にとっては不満な内容であったため、天皇から離反する勢力が増えていってしまいました。武家勢力の中で人望のあった有力武将、足利尊氏さんが後醍醐天皇と敵対することによって反天皇勢力が勢い付いてしまいます。楠木さんは尊氏さんの影響力を重視していたようで後醍醐天皇に尊氏さんとの和睦を進言したそうですが後醍醐天皇の側近の横やりの為か、楠木さんの提案は退けられ、反対に楠木さんは謹慎処分にされてしまいました。一時期新政府から干されてしまう楠木さんですが、それを恨んで反政府勢力に寝返ることもありませんでした。尊氏さんの勢力が優勢となって京に攻め入ろうとするような後醍醐天皇側の窮地にあっては天皇の要請に従い、圧倒的に不利な中でも朝廷側に立って最後まで尊氏さんらの勢力に抵抗し続けました。朝廷側の軍勢の規模はかなり小さくなってしまっていたようです。上でも触れた通り尊氏さんらの勢力との戦いに敗北したため身内の方と刺し違えてお亡くなりになりました。後醍醐天皇に仕えることとなった後は状況の良い時も悪い時も一貫して尽くし続けたことになります。後醍醐天皇は尊氏さんたちの勢力によって京を追われ奈良の吉野に別の朝廷を設け尊氏さんたちの政権、室町幕府と対峙しました。

 

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今回は楠木正成さんと後醍醐天皇の関係について一部取りあげました。足利尊氏さんと同じ頃に活躍した武将として楠木正成さんは大変有名な方ですし、忠臣の鑑(かがみ)、お手本として名高い方でもありますので記事にしてみたく、このようなテーマにしてみました。お侍さんの世界の価値観では当然のことなのかもしれませんが、主君のために桁違いの数の敵を前にしても寝返らず最後まで戦い抜くというのはなかなか出来る話ではありませんし、立派なことのように思います。この方がすごいと思う他の点は少数で戦っても奇策を講じて(城から岩を落としたり熱湯をぶちまけたりなどなどたくさん逸話があるようです)相手をほんろうし持ちこたえたり、戦闘に勝ったりしてしまうところかなという気もします。容易ならざる人物として敵から恐れられるのみならず、一定の敬意を持たれていたようです。明治時代以降のもてはやされかたは大変なもので皇居には現在も楠木正成さんの、今にも動き出しそうな雄々しい銅像が設けられています。私が社会や歴史の授業を受けた頃は楠木さんのことが重点的に取り上げられた記憶はありませんけれど、真田信繁(真田幸村)さんのように楠木さんもテレビなどで取りあげられるのは、命を捨ててでも恩ある主君に報いたてまつろうとする姿勢に人々が共感しているからなのかなという気がします。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

別の時代の忠義を貫いたと思われる人物について触れている話「真田幸村さんは秀吉さんとどのような関係にあったのでしょう」はこちらです。

反江戸幕府勢力と戦い続けた人物について触れている話「新選組の近藤勇さんは最後にどのようになったのでしょう」はこちらです。

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