近衛文麿も入る1940年の新体制運動とは?内閣への影響も

1940年の新体制運動とは

 

新体制運動(しんたいせいうんどう)とは近衛文麿さんたちが中心となったと見られている政治運動で、この運動が強まったのは西暦1940年(昭和15年)になります。この政治運動は長期化している日本と中華民国国民政府との間でおこなわれていた戦闘や欧州で発生した第二次世界大戦(当時ドイツが隣国のポーランドに侵攻したことでイギリスやフランスがドイツとの戦争を始めていました。)に対応することの出来る仕組みを日本国内で作り上げることを目的としていたようです。1940年以前にも中華民国国民政府との戦闘が長期化する中、近衛さんを中心とする新しい政党を作って当時の情勢に対応しようという動きもあったようですが、当の本人近衛さんが政権を担当していた第一次近衛内閣の時にはそのような新党を作る動きに積極的ではなかったようです。かつてはそうであった近衛さんが1940年に入ってからそれまでとは異なる動きをするようになります。

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1939年の1月、第一次近衛内閣総辞職のあと近衛さんは次の内閣、平沼騏一郎内閣で無任所大臣(他の大臣が担当しない行政事務を管轄する大臣だそうです)という大臣職や枢密院(すうみついん)の議長を担当します。枢密院というのは大日本帝国憲法下の日本で天皇の最高諮問機関だった部署になります。天皇の諮問機関ということは天皇からの意見要請に対し調査や審議をおこなって、意見を進言する役目を担うということになります。近衛さんはこの部署のトップになっていたのですが、1940年6月にはその立場を退いています。退いただけではなく当時の情勢に対応するため強力な政治体制を整える必要があり、そのような体制を作ることに自分自身も貢献したい旨の声明をわざわざ出しました。その前の月には近衛さん自身が新しい政党を立ち上げる計画を既に立て始めていたようです。この近衛さんの6月の声明によって新体制運動と呼ばれるこの政治運動は盛り上がっていくこととなりました。この新しい政党を立ち上げようとしていた人たちは既存の政党に所属していた自由主義を支持する国会議員を排除する必要があると考えていた、そのような指摘があります。

 

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当時の内閣への影響

 

近衛さんが新党を立ち上げる計画を立てていたり、枢密院議長という重職を投げだして、新しい体制を築くために自分も協力したいといった内容の声明を出した1940年の5月から6月頃、政権を担当していたのは米内光政(よないみつまさ)さんでした。米内さんの政権が誕生したのは1940年1月の話です。英国、米国との関係を悪化させるべきではないという考えの持ち主である米内さんに対し当時の日本陸軍主流派は英国、米国との協調路線を支持しておらず米内政権に対し否定的でした。米内内閣発足は昭和天皇の強い支持もあったようで、内閣成立を阻止することはさすがの陸軍もためらったようですが、米内内閣成立後に第二次世界大戦がおこなわれていた欧州でドイツが勢力圏を拡大していることに刺激されたようで日本陸軍はドイツとの連携強化に急激に傾いたようです。そして英国、米国との協調関係を重視する立場ではないと思われた近衛さんが新体制運動に力を入れる声明を出したことによって陸軍は近衛さんを強く支持するようになります。ドイツの動きと近衛さんの動きによって米内さんの内閣を辞めさせ近衛さんの政権誕生を陸軍は望むようになり結局米内内閣で陸軍大臣を担当していた畑陸軍大臣が辞職します。次の陸軍大臣を陸軍側が出さないという米内内閣に対する非協力的な姿勢をあからさまにしました。結局米内内閣は陸軍大臣をたてられないことを理由に内閣を組織できず、総辞職せざるを得なくなります。1940年7月のことです。昭和天皇が期待されていた米内内閣がこうして半年で消えることとなってしまいました。

 

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今回は米内内閣が倒れる以前に盛り上がり始めた新体制運動について一部取りあげてみました。一つの内閣を退陣させた運動かどうかについては意見が分かれるのかもしれませんが陸軍からの米内内閣への風当たりを強めることに影響した可能性もあるのかなと感じたことや、後に民主的で自由を尊重する政治の必要条件であろう政党が解党することとなるきっかけを作った組織、大政翼賛会に新体制運動がつながっていく動きなので記事にしてみました。第一次近衛内閣末期に新党を作ろうと近衛さんに働きかける動きはあったようですが、その時に近衛さんは新党の動きには乗りませんでした。でも1940年に入ると積極的に関わっていくんですよね。1938年の年末も1940年5月頃も中華民国国民政府との戦闘が長引いていたという点では同様ですが、違うことと言えばドイツが1940年当時欧州で勢いを増していたということでしょうか。あと日本の政権は米内内閣というその前の内閣の阿部政権は別として平沼内閣や第一次近衛内閣のような政権とは英国や米国との関係のとり方が異なる、当時としては特殊な立場の内閣だったという点も1938年の年末とは異なっていたいうことも言えるかもしれません。親英米政権を倒したいという考えが近衛さんにあったかどうかはよくわかりませんが、おそらく陸軍主流派は米内内閣のその点が気に食わなかったでしょうし、新体制運動が盛り上がった後に至った結果というのは陸軍の望むところでした。米内政権が倒れてしまったので。実際に内閣を倒したのは米内内閣に新たな陸軍大臣を出さなかった陸軍です。また近衛さんが首相に就任することとなります。その後どうなるかについてはまた別の記事で取りあげてみたいと思います。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

これ以前に近衛元首相が首相を辞めたことに触れている話「平沼騏一郎内閣とは?近衛文麿内閣の総辞職や複雑怪奇発言も」はこちらです。

226事件後、首相を決める際に近衛氏の名前が少し出る話「1936年、広田内閣発足。吉田さんが関わる組閣問題も」はこちらです。

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