樺太千島交換条約とは?目的や定められた国境について
樺太千島交換条約とは?
樺太千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)は西暦1875年(明治8年)に日本とロシア帝国の間で結ばれた条約です。この時日本側の全権となってロシアと条約締結のため協議した人物は戊辰(ぼしん)戦争の最後の戦争、箱館(はこだて)戦争で朝廷側と戦った榎本武揚(えのもとたけあき)さんでした。樺太は全てロシアが領有することとし、千島列島は全て日本が領有するということとなりました。明治政府内でこの案を主張した人物は黒田清隆(くろだきよたか)さんだったそうです。
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樺太千島交換条約を結んだ目的
樺太地域で日ロ間でのトラブルがたびたび発生し国際問題となっていたのを解決するためだったと思われます。もともとこの条約を結ぶまでは樺太地域をどの国が領有することにするか決着がついていませんでした。江戸時代末期に日露和親条約が結ばれはしましたが、その時は樺太について国境を明確にすることが出来ず、樺太は両国民が混ざり住む地域であることを確認するだけにとどめています。
しかし樺太地域の日本人とロシア人の間で権利に関するトラブルの発生件数が増えたようで、問題解決のために江戸幕府はロシアに北緯48度で国境を引くことを提案したそうです。しかしその方針で協議しても決着はつきませんでした。北緯48度で国境を引くと樺太での日本側の領土は樺太全体の5分の1くらいしかありませんから日本側からすると相当な譲歩のようにも感じますがロシアは納得しなかったんですね。
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樺太領内で国境を引くという話し合いはうまくいきませんし樺太地域でのトラブルは発生します。このまま樺太に国境を策定するという案にこだわっても決着がつかないということで樺太はロシアに譲り、千島列島は日本のものにするという案を明治政府の方針としてロシアと協議し条約締結にこぎつけました。
当時の日本には余裕が無く、北海道を開拓することに力を入れるだけで精一杯。樺太を巡ってロシアと厳しく対立、ましてや戦争など出来る状態ではなかったという指摘が多いようです。
定められた国境は
この条約が結ばれるまで日露間にひかれていた国境ですが、樺太については国境が引けずにいたのはこれまでの話の通りです。千島列島については日露和親条約を結んだ結果、択捉(えとろふ)島と得撫(うるっぷ)島の間に国境を引いていました。
今回の条約を結んだことによって樺太と北海道の間に国境が引かれることとなり、千島列島全てが日本領となったためカムチャッカ半島と占守(しゅむしゅ)島の間に新たに国境が引かれることとなりました。
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今回は明治時代のロシアとの外交の一幕であった樺太千島交換条約について取りあげてみました。この条約は歴史の授業でも習った記憶はあるのですが、習った当時千島列島全ての島を合わせても樺太の面積に比べて小さく見えたため「何でこんな条約を結んだんだろう。損しているんじゃないだろうか。」と感じた記憶があります。
今回面積を調べてみましたが択捉島のすぐ北にあるウルップ島から北の千島列島の総面積は5346平方キロメートルでした。それに比べて樺太の総面積は76400平方キロメートルです。14倍くらいになります。全然違いますよね。当時の日本とロシアの力関係がこのようなところに出ているような気がするのですが。日本は当時そんな内容でも約束してしまおうと思うほど切羽詰まっていたということなんでしょうかね。当時戦争せずに問題解決したというだけでも一定の成果だったということでしょうか。
樺太を巡ってロシアと武力衝突。日本が敗れて北海道の一部もロシアに取られてしまった、などということになるよりはましだ、などと当時の日本政府の人たちは考えていたんでしょうか。北海道開拓の政策として有名な屯田兵(とんでんへい)制度の大きな目的の一つは北の守りを固めるというものでした。北の守りを固めるというのはつまりはロシア軍に備えるということですから、それなりにロシアに対し警戒はしていたのでしょう。
明治政府内にはあくまで樺太の中に国境を引くべきだと主張していた人もいたようです。その意見は樺太を南北に分ける国境をひいて日本、ロシアの住民をそれぞれの地域に移動させるというものでした。その意見を主張していた人が征韓論の対立で政府を去ったため、明治政府の方針が樺太と千島の交換に流れていったようです。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載した写真に関係はございません。ご了承ください。
日露外交関連記事「日露和親条約で定められた国境と開港した場所、条約の内容について」はこちらです。
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