日露戦争での英米の動きとポーツマス条約の内容について
日露戦争での英米の動き
英国は日本と既に西暦1902年日英同盟協約に調印し同盟関係にありました。ただこの協約の中にある内容通り、同盟している一方の国(例えば日本)がどこかの一つの国(例えばロシアとします)と戦う場合は参戦せず中立を守り、もし同盟国の相手側に立って別の国が参戦する場合(例えばフランスが参戦)するような場合は同盟しているもう一方の国(英国)も同盟国(日本)側に立って参戦するという内容でした。ですから日本対ロシアという構図の場合イギリスは参戦せず中立を守るという約束となっていたわけです。
イギリスが軍事的な支援をしたわけではありませんでしたが、日本が戦争を行うにあたり多額のお金を必要とした際にお金の工面でイギリス側が日本に協力していたようです。ただイギリス政府レベルというよりはイギリスの銀行のような民間レベルでの協力だったようです。具体的には日本政府が他国のお金を貸してくれそうな人たちに対し債権を発行してそれを買ってもらい日本はお金を得るという方法をとったそうですが、イギリスの銀行家たちの協力を得てその債権をロンドンで売ってもらうことが出来たそうです。
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米国の大統領周辺は日露戦争開戦後に日本政府関係者と接触した際に日本側勝利の可能性を示唆していたという指摘があるようです。ロシア側が日本と実際に戦争になることを想定していなかったことや戦争のための費用をロシア側が工面することは困難となるだろうという見通し、東アジアと異なるロシア領内でロシア軍が動かなければならない内乱が発生する可能性などが理由だったそうです。
また日露戦争が始まって1年以上経過した1905年6月、日本側からアメリカ政府に日露間の講和の仲介を求め、アメリカ側もこれを承諾しています。講和会議が行われたのは米国ニューハンプシャー州の都市ポーツマスでした(アメリカ大陸東海岸にある都市です)。
ただそれ以前に奉天会戦で日本が奉天の占領に成功した時点で米国はロシア側に日本との和平交渉をするようロシア側にはたらきかけていたそうです。奉天会戦は1905年3月の話です。しかしこの米国のロシアに対し行った和平交渉の提案をロシア皇帝が断り、失敗に終わりました。日本側が正式に仲介依頼をする6月以前に米国が動いていたということになります。
日本海での海戦から4か月ほど経過した1905年9月に日露間の休戦が成立したそうです。講和条約であるポーツマス条約も同月に調印されました。
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ポーツマス条約の内容について
ポーツマス条約で決められた大まかな内容(特に樺太や満州の件)は大変有名かと思いますがここで改めて内容を見てみます。
ロシアが大韓帝国に対する日本側の指導する権利、監督する権利を全面的に認めることを条約内で明確にしました。
またロシア側が敷いた満州地域の鉄道、東清鉄道(とうしんてつどう)の内、南側の鉄道を日本に譲ることとしました。
東清鉄道の譲渡される南側の部分の付近には炭鉱があるそうでロシアは清国からその炭鉱を租借していました(他国からその領土や利権を借りることを租借「そしゃく」と言います)。そのような炭鉱もロシアが日本に譲ることとなりました。
ロシアは清国から遼東半島の一部を租借していましたが、この租借する権利を日本に譲ることを認めました。旅順や大連といった重要な拠点が含まれている地域です。
また樺太の北緯50度より南の地域や付近の島々をロシアは日本に譲ることも認めました。
ロシアに沿海州という地域がありますがその地域で漁業をする権利についても日本側に譲ることを認めました。沿海州は日本海に面した地域で有名な都市ウラジオストクがあります。他にカムチャッカ地方(千島列島を北に行くと大きな半島がありますが、あれがカムチャッカ半島です。)の漁業権も日本に譲ることとしました。
また日本軍もロシア軍も満州から鉄道警護目的を除き撤退することが約束されました。
以上のような内容がこのポーツマス条約で決められました。
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今回は英国と米国が日露戦争に関しどのように動いたかということと講和条約の内容について取りあげてみました。軍事的には英国、米国の参戦があったわけではありませんが、日本が戦争を継続するために必要不可欠なお金の工面で大変な協力を得たことや人的にも経済的にもこれ以上の戦争継続が困難という状況の中講和条約の仲介を受け入れてもらったことなど日本がギリギリの状況で戦争を負けることなく締めくくることが出来るよう相当な御膳立てをしてもらっていたことを知る結果となりました。当時の日本政府関係者は英国、米国の協力に相当感謝したのではないでしょうか。もちろん100%の善意で英国米国が動いたわけではないのでしょうが。
日露間の講和の会議では日本側から賠償金の要求があってもロシアは頑として受け付けなかったそうです。ロシア側の強気な態度が見て取れます。本当に日本側がロシアに圧勝していたらこのような主張をロシア側は出来なかったでしょう。軍の兵員の損失が著しかった日本に対しロシアはまだ動員できる兵力があったそうですから、今後陸上での戦闘があったなら日本に負けることはないという自信があったのかもしれません。賠償金無しでもいいよということで日本が譲歩したということは当時の日本の苦しい状況を示しているように感じます。ロシアはこの戦争をおこなった事で長年求めやっと手に入れた不凍港である遼東半島の旅順などを手放す結果となります。「朝鮮半島もわが勢力下に」と欲をかいたことで本当に重要な拠点を失ってしまったのはロシア側にとって相当悔しかったことでしょう。戦争に負けた場合どういうことになるのかよくよく考えた上で他国と付き合わないと自国にとって本当に大切なものを失ってしまうことになりかねないですね。
状況的に見てこの戦争はロシアにとってやらなくてもよかった戦争だったのではないでしょうか。日本は「満州地域でのロシアの権益を認める」という考えを戦争前の交渉で示していたので。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関連はございません。ご了承ください。
講和条約関連記事「北京議定書とは?賠償金や北清事変でのロシアの動きも」はこちらです。
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