徳川家康さんが将軍を担当した期間はどれくらいなのでしょう
家康さんが将軍だった期間
豊臣家の家臣同士の争いということで始まった関ヶ原の戦いは徳川家康さんが率いる東軍の勝利に終わりました。この規模の大きな戦いがおこなわれた後に豊臣家の家臣であるはずの徳川家康さんが朝廷から将軍、征夷大将軍という役職に任命されることとなり、江戸に幕府を開いて結局は豊臣家に対して臣下になるよう要求するようにもなります。家康さんが朝廷から征夷大将軍に任命されたのは慶長8年、西暦1603年の2月のことでした(2月12日だと言われているようです)。将軍となった家康さんは全国の諸侯に対して領地の田畑の測量情報を提出させるなど国内の支配を固めるための手を打っていきます。しかし家康さんは慶長10年、西暦1605年の4月には将軍という役職を自分の息子である徳川秀忠さんに引き継がせています。交代しました。将軍は朝廷が任命する役職ですから家康さんが引き継がせるというのは本当であればおかしな表現ですが、この時点での将軍職交代に家康さんの意向が非常に強く反映されているようなので実質的には家康さんが引き継がせたと見ても良いかと思います。息子の秀忠さんが朝廷から将軍職に任命されたのは1605年の4月16日だったと言われているようです。ということで家康さんが将軍の地位に就いていた期間というのは慶長8年、西暦1603年の2月12日から慶長10年、西暦1605年の4月16日までということで、約2年2か月間ということになります。江戸時代が始まるきっかけとなった人物としては将軍担当期間が短い感じがします。その後大坂の陣、大坂の役が1614年から1615年にかけて発生し豊臣秀頼さんや淀君さんらが命を落とす、豊臣家が滅びることとなって、その翌年、1616年に家康さんは生涯を閉じることになります。息子さんに将軍職を引き継がせてから10年以上は御存命だったということですね。
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短期間で将軍職を交代したのは
家康さんが2年2か月間で将軍職を交代したのは、出来るだけ速やかに徳川家が将軍職を今後担当することになるんだということを世の中に示したかったからとか、息子の秀忠さんに将軍職を担当させて自分が活動できる間にいろいろと秀忠さんに経験させておきたかった、教育的な期間を確保しておきたかったからだといった指摘があるようです。家康さん自身がお亡くなりになるまで将軍職を担当することになりますと次の将軍に誰がなるかということを理由に国内で争いが発生する危険性はあります。家康さんが亡くなった後の徳川家に将軍職を引き継ぐ力は無いとにらんだ有力な大名が家康さんの死後に秀忠さんが将軍になっても言うことを聞くかどうかわかりません。しかし家康さんが軍を率いることの出来る状態の時に秀忠さんが将軍に就任したのなら有力大名も反抗しづらいでしょうし、一定期間将軍を担当することが出来れば将軍としての威信は家康さんが亡くなった後に将軍職に就任するよりも強い状態となっていることでしょう。秀忠さんに将軍職を譲った後も家康さんは駿府、現在の静岡県、静岡市の地を拠点として秀忠さんと協力して徳川家による全国の支配を固めるための仕組みを作っていくことになりました。
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今回は徳川家康さんの将軍職在任期間について一部取りあげました。家康さんが将軍に就任するという出来事に関連した記事を作ろうと思ったのですが、家康さんの将軍在任期間について一般的に関心があるようでしたのでこのようなテーマの記事にしています。就任期間を短くして息子さんに交代した理由については推測するほか無いように思いますが、よく指摘されている見方というのは当時の状況を考えますと合理的な感じがします。豊臣秀吉さんが年の非常に離れた豊臣秀頼さんではなく、もっと年の近い後継者をしっかり育てていることに成功していれば豊臣家の統治が覆ることもなかったのかもしれません。
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豊臣秀次さんが命を落とす結果になってしまったことは後の豊臣家にとって大変影響した事件だったと言えるのでしょう。家康さんは豊臣家統治の世の中をひっくり返した当事者でもあるわけですし、徳川支配の世の中を少しでも続けるために、徳川家が豊臣家の二の舞とならないよう対策をとったというのは自然な話のような気がします。家康さんは将軍職に就任するために姓や系図に手心を加えて担当できる資格を得たのだという指摘もあるようです。無理やりにでも就任する必要があるくらい天皇が任命する将軍という役職は全国の諸大名を従わせるために役立つものだったんですね。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
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江戸を幕府の拠点にしたことについて触れている話「江戸幕府が江戸という場所で開かれた理由は何なのでしょう」はこちらです。
大名が守るべき規則を設定したことについて触れている話「江戸時代の武家諸法度はなぜ作られたのでしょう」はこちらです。
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