江戸幕府が江戸という場所で開かれた理由は何なのでしょう

江戸幕府の場所が江戸である理由

 

江戸幕府が開かれる以前、徳川家康さんが関東の領地を治めることになったのは当時日本の政治を仕切っていた実力者、豊臣秀吉さんが家康さんに指示をしたことをきっかけにしています。それまで家康さんは東海地方に広大な領地を持っていました。しかし秀吉さんが戦国大名として相当な力を持っていた北条氏を降伏させ、北条氏が治めていた関東地方に統治者がいなくなり代わりに治める武将が必要となりました。秀吉さんは家康さんの治める領地を東海から関東に移す命令を出し、反抗したら罰則を科せられるでしょうから家康さんもその指示に従いました。それまで関東を治めていた北条氏は拠点となる場所を小田原としていました。戦国大名として大きく飛躍するきっかけを作った北条早雲という人がまず確保した領地が伊豆や相模といった地域だったのでそのような経緯から北条家の人たちは拠点を小田原のままにしていたのかもしれませんが早雲さんの下の代になっても拠点を動かさなかったのは小田原にそれなりの利点があったからだとも言えます。しかし家康さんは秀吉さんから江戸に拠点を作るよう指示されたとも言われますが、秀吉さんが亡くなった(慶長3年、西暦1598年)後も関東地域を治める拠点を江戸のままにしています。小田原にはしませんでした。秀吉さんが亡くなって5年後に家康さんが幕府を開いた場所も江戸で、そのままでした。秀吉さんが亡くなって影響力が無くなるのですから関東を治めるのにもっと都合のいい場所があるなら秀吉さんの死後に移動してもいいはずです。でもそうしませんでした。江戸ってそんなに良かったのでしょうか。幕府を江戸で開いた理由は何だったのでしょう。都市として栄えるための条件を満たしていたことや自由度が大きかったこと、輸送上の要所だったことなどがよく指摘されているようです。

 

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栄えるための条件を満たしていた

 

江戸は広大な平地(関東平野)が広がっていて、関東平野に流れ込む大きな川が海(太平洋)に流れ込む地域にあり、川が海に流れ込む場所ですから当然海に面しています。このような環境は都市として繁栄する条件を満たしているということになるのだそうです。必要な建物を立てていくために山を切り開く必要は無いですし海に近いので港を整備したら江戸に住む人々に必要な物を船でいっぱい運び込むことも可能になります。

 

自由度が大きかった

 

歴史のある他の都市に比べ江戸はあまり発展していた地域ではありませんでした。北条家の人たちが江戸を拠点にしなかったのは江戸が北条家の治めている領地の境界近くであってまだまだ周辺に警戒しなければならない武将たちがひしめいていたからだとも言われているそうです。江戸は小田原や関西の大坂や京都のような開発された地域とは異なり、あまり手を付けられていない地域であったため家康さんのやりたいように自由に開発が出来るという利点がありました。

 

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輸送上の要所でした

 

川が流れ込むところであり海に面している場所であるのは上でも触れましたが、そのような特徴もあって水路を発達させることを可能にする地域だったようです。海から運んできた物資を水路によって内陸まで運ぶことが出来るのは便利なことでした。また江戸は東北地域に通じる陸路の拠点でもありました。色々な地域に通じる街道上にあるため物資を陸上輸送するのにも便利な場所でした。

 

江戸の話なのが少しぼやけてしまいますが

 

江戸という都市を選んだ話とは少しずれてしまいますが秀吉さんが亡くなった後も例えば大阪は豊臣勢力が強い地域ですので対象外かもしれませんが、室町幕府のように京都に拠点を置くことは家康さんがやりたければやれたのかもしれません。しかし家康さんはそうせずにそれまで政治経済の中心地であった関西から遠く離れた関東に幕府を開いています。家康さんは源頼朝さんが関東で幕府を開いたことについて高く評価していたそうで、源氏と敵対した平氏の人たちや室町幕府の将軍の血筋である、足利家の人たちのように京都を拠点にすることによって幕府中枢の武将たちが京の朝廷に仕えるお公家さんたちのように貴族化することを危険視していた、そのため拠点を朝廷がある京ではなく関東地域のままにした、そういった見方があるようです。

 

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今回は幕府を開いた場所として江戸を選択した理由を一部取りあげました。仮になぜ江戸だったのか?と聞かれたとしても私などは「いやー、よくわからないなぁ」と返答するくらいしか出来ない状態でしたのでよく言われている内容だけでも知っておきたくこのようなテーマで記事を作ってみました。こうだったからなのだろうという推測の話が多くなってしまいますが、従来から指摘されている内容は一つ一つ理にかなっているため家康さんに江戸を拠点にしましょうと進言する家臣の人たちも似たようなことは考えていたんじゃないだろうかという気もします。統治者というのは治安を維持するために戦い方が上手であることは当然要求されますが地域を開発するにあたっての先見性のようなものも求められるものなのでしょうか。上に立つ人、特に新しい時代を築かなければならない指導者というのはいろいろ出来なければならないので本当に大変ですね。優秀な側近を大勢抱えなければ、なかなかやっていけないんじゃないでしょうか。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

国を治めるための江戸幕府の工夫について触れている話「江戸時代に存在した大名の種類や特徴はどうだったのでしょう」はこちらです。

江戸時代の有名な制度について触れている話「江戸時代、幕府は参勤交代をなぜ大名にさせたのでしょう」はこちらです。

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