江戸時代に存在した大名の種類や特徴はどうだったのでしょう
江戸時代の大名の種類
江戸時代には大名、1万石以上の領地を持つか待遇を受けていた家の数というのは時期によって変動するようですが250家以上はあり300家くらいだった頃もあったそうです。当時の一般の人々からすると雲の上の人たちのような、高い立場の人々ですが、こういった高い立場の人々の中でもさらに種類、区分がされていて扱いが異なっていたと言われています。大名にはどのような種類があったのか。大名の種類については学校でも社会や歴史の授業で習ったような気が何となくしますが、親藩(しんぱん)といったものや、譜代大名(ふだいだいみょう)、外様大名(とざまだいみょう)といった、大きく3つの区分に分けられていたと言われています。お殿様と言えばお殿様ですし、もう一つ加えるなら徳川将軍家ということになるでしょうか。
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親藩(しんぱん)
徳川将軍家と血のつながりがある家柄の方が大名になった場合の区分が親藩ということになります。将軍家、尾張徳川家、紀州徳川家のことや尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家のことを御三家(ごさんけ)と呼ぶことは有名ですが、尾張家、紀州家、水戸家といった家柄の大名は当然親藩です。また徳川吉宗さんの子孫である田安家や一橋家、徳川家重さんの子孫である清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれますが、こういった関係の大名も親藩です。徳川家康さんの男のお子さんの子孫の中で御三家、御三卿以外の方々についても、大名になられたかたは親藩の区分となっています。松平(まつだいら)の姓の大名の人たちは大抵そういった関連のある方々です。会津藩のお殿様や福井藩のお殿様では幕末の松平容保(まつだいらかたもり)さんや松平慶永(まつだいらよしなが、松平春嶽まつだいらしゅんがくとも言われる方です)さんが有名ですが、松平姓ですよね。親藩の方たちは大きな領地を与えられることが多かったようですが幕府の政治に関与することは基本的に無かったそうです。しかし幕末は別で、親藩のお殿様が政治に密接にかかわる役職についたりしていました。幕末に幕府内で将軍後見職や政事総裁職、京都守護職といった重要な役職が創設されますけれど、その役職には親藩のお殿様が就いたりしていました。政事総裁職を先ほど出てきた松平慶永さんが担当したり、京都守護職を松平容保さんが担当しています。
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譜代大名(ふだいだいみょう)
慶長5年、西暦1600年に発生した関ヶ原の戦い。この戦よりも前に徳川家の家臣となっていた方が大名となった場合には譜代大名と見なされていました。譜代(ふだい)というのは代が変わっても同じ家系に仕えることを意味する言葉なのだそうです。譜代大名の数は大名全体のうち半数以上を占めています。譜代大名の中でも実はいつの時期から徳川家の家臣であったかによって区分がされていたようで、安祥譜代(あんじょうふだい)だの岡崎譜代(おかざきふだい)だの色々あったようです。古参の家臣であるほど格が上だったということなのでしょう。譜代大名の領地の規模は小さめ(5万石未満)なことが多いですが、国内の重要な地域の周辺を領地としていることが多く、幕府内の重要な仕事を担当するのは大抵譜代大名の方々だったそうです。
外様大名(とざまだいみょう)
先ほど出てきた戦の名前、関ヶ原の戦いが起きた頃やそれ以降に徳川氏に従う態度を示した大名のことを外様大名と呼んで区分しました。戦国時代に大きな力を持っていた勢力の家柄が多数この外様大名の中に存在しています。国内を統治するにあたり重要な地域からは遠ざけられ、幕府の政治上重要な役職に抜擢されるようなこともありませんでした。ただ広大な領地を所有することは幕府からも許可され、自分の領地を統治し、江戸幕府警護のために軍事力の提供をしたり江戸地域の工事などをおこないました。加賀藩の前田家(約100万石)や薩摩藩の島津家(約70万石)、仙台藩の伊達家(約60万石)、熊本藩の細川家(52万石)などは大変大きな領地を持っていた大名として有名ですが、いずれも外様大名です。
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今回は歴史の授業でもよく扱われる話題、大名の種類を取りあげました。江戸時代の大名の種類についてはそれなりに関心を持たれる方も多いようですね。具体的な大名の区分の定義はどのような感じだったか改めて確認したくこのようなテーマで記事を作ってみました。個人的には親藩、譜代、外様に分類されることは何となく覚えてはいますが、記事を作っていて親藩の大名があまり政治上重要な役職につくことはなかったということを知り、その点はあまり意識したことはなかった気がします。親藩のお殿様が政治上重要な役職につくことが少なかったのは血縁の近い者同士による幕府内での権力争いになってしまうことを防ぎたいという配慮が幕府中枢にあったからという見方があるようです。外様大名が要所から離れた領地を所有することになったり幕府の役職に選ばれることがなかったのは謀反(むほん)の恐れが他の区分の大名に比べ大きかったからというのは想像しやすい話のような気がします。幕府の重要な役職を務めることの多かった譜代大名に対して一般的に大きな領地を与えなかったというのも幕府に背いた場合に備えての配慮だったと言われているそうです。全国を安定して治めるために江戸幕府はいろいろな工夫をしていたということがこういった大名の扱いからも、うかがうことができます。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
江戸幕府が大名に課した規則について触れている話「江戸時代、幕府は参勤交代をなぜ大名にさせたのでしょう」はこちらです。
譜代大名から選ばれる幕府の役職について触れている話「江戸時代の話に出てくる老中とは何なのでしょう」はこちらです。
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