江戸時代の話に出てくる老中とは何なのでしょう
江戸時代の老中とは
江戸時代の話を見聞きしていますと政治、経済の分野では老中(ろうじゅう)という言葉が出てくることが多いです。江戸中期や幕末の話では特にそういった傾向が強いような気がしますが、この老中というのは一体何なのでしょう。江戸時代に存在した老中というのは江戸幕府内の役職の名前でして、「宿老しゅくろう」とか「執政しっせい」など同じ役職を意味する他の呼び名もあったそうです。老中というのは江戸幕府の役人の中で常設、いつも存在する役職の中では最も高い立場であり(もちろん一番幕府内で偉いのは「将軍」です)、この老中という立場の人が当時の政治の事務を将軍の許可のもとで取り仕切っていました。誰が将軍を担当していたかにもよりますが、将軍が政治にあまりかかわろうとしない場合には老中の意向を将軍が自動的に認めるような状態だったそうですから、場合によっては最高権力者くらいの大きな権限を持っていたということになります。江戸幕府内で強い発言力、影響力を持っていて将軍のもとで実際に政治をおこなう役職でした。
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担当する資格など
老中は1人だけ就任するのではなく4人から5人選ばれるのが通例となっていました。どういった人たちの中から老中を担当する人が選ばれたのかというと、10万石以下の領地を保有する譜代大名(ふだいだいみょう)からです。老中を担当するのは一国の領主、お殿様だったんですね。譜代大名というのは大名の一種です。徳川家が三河の国、現在の愛知県の東部にあたる地域ですが、その地域を治めていた時代から関ヶ原の戦い以前の間に徳川家に仕えていたお侍さんが大名となった場合、譜代大名と見なされたそうです。大名の他の種類には親藩(しんぱん)や外様大名(とざまだいみょう)があります。基本的に外様大名は老中にはなれませんでした。外様大名たちが江戸幕府に本当に忠誠を誓って政治をするか幕府側としては心配だったということなのでしょう。少ない石高の大名が老中になった場合は3万石にまで加増された上で老中職を担当したそうですが、幕末を除き、老中をしたからと言って老中に対して幕府から給料のような報酬が支給されたわけではなかったそうです。自分の領地の収入でやりくりしなければなりませんでした。
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仕事内容
4~5人の老中は毎月当番になる人が決められていて、当番の人は諸大名や商人などと面会して要望を聞いたり、届出に応じていたそうです。通常当番の老中が1人で事案を決定していたそうですが、大ごとの案件では老中担当者全員で会議を開き相談をして結論を出していました。老中が担当していたのは朝廷、諸大名、公家、お寺、神社といった国内の有力な勢力の統制や幕府の役人に対する指示、外交、重要な工事の指揮などで、裁判にも関与することがあったそうです。担当している大名はお昼過ぎまで老中の仕事で江戸城に居り、その後は帰宅しますけれど、自宅に戻ったら戻ったで領主としての仕事が待っているといった忙しい日常だったようです。
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今回は江戸時代の役職、老中について取りあげました。江戸時代の話で一般的に関心がもたれるのはどういったことなのか調べていたのですが、この老中という役職に関しては時代劇でも頻繁に出てくるためか興味を持っている方々が多いようですし、個人的には幕府内のかなり高い位の役職程度の理解しかなかったのでこれを機会に調べてみようと思いました。老中を担当している期間中に相応の報酬が支給されないというのは幕府の財政状況にそれほど余裕が無かったからなのでしょうかね。かなりの重役にもかかわらず無給で働くというのもつらい話です。任命された大名は原則、治める領地が小さい場合に領地を加増する他は経済的な実益を得られるわけではありませんから、老中を担当した経歴という名誉くらいしか得られないのでしょうかね。時代によっては賄賂を受けていたということはあるのかもしれませんけれど。将軍が政治に主体的に関わるというのは江戸時代の初期と吉宗さんの時代と末期くらいになるのでしょうか。幕府のトップが政治にあまり関わっていなくてもそれなりに幕府が長続きしたわけですから、老中による政治の取り仕切りというのはある程度うまく機能していたということなのかもしれません。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
幕末、井伊さんが大老職を担当する頃の話「家定公将軍継嗣問題での井伊直弼と島津斉彬の立場について」はこちらです。
権力者は危険と隣り合わせだと示唆する事例に触れている話「桜田門外の変とは?暗殺された人物と発生した場所や年号について」はこちらです。
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