江戸時代の享保の改革とはどのような内容だったのでしょう

江戸時代の享保の改革の内容

 

享保の改革(きょうほうのかいかく)は江戸時代、江戸幕府が始まって(西暦1603年、慶長8年)から110年くらい経過した1716年(享保元年)に徳川吉宗(とくがわよしむね)という人が江戸幕府8代将軍に就任してから始められ、吉宗さんの時代だった約30年間でおこなわれた政治改革です。政治がうまく機能して社会が安定しているなら政治の内容を変更する必要もないのでしょうが、吉宗さんが将軍になった頃、江戸幕府は台所事情があまり良くなかったようです。財政赤字だった幕府の懐を改善するための政策が享保の改革の主要な内容ということになるかと思います。またお米の価格を安定させるための政策もとっています。他には裁判に関する政策もありましたし、一般の民衆が政治に関し上申するような仕組みも取り入れています。こういった内容の政治改革がおこなわれたようですが、幕府の政治に関わる人材として譜代大名を重視して、将軍と老中の間を取り持つような側用人や、学識を評価されて政治に中心的にそれまで関わっていた学者を政治の中枢から退けるような人事を吉宗さんは将軍に就任した後おこなっています。この点もそれまでの政治に比べ変化したところです。

 

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幕府の台所事情を良くするために

 

幕府の財政状況が赤字なのを改善するために支出を減らし、収入を増やそうとしました。ぜいたくを戒め、倹約に励むよう勧めるようにします。吉宗さん本人も質素な衣類、食事で生活し部下に見習わせようとしたようです。またぜいたく品の製造販売を禁止する決まりも作ったそうです。一方、収入、年貢の量を増やし安定させるために農業従事者から取り立てる年貢の量を年ごとの収穫量の一定割合ではなく、これまでの期間どれくらいの収穫量であったかを参考にして、毎年決まった量を納めさせるようにしました。これは凶作の年の場合、農業従事者にとっては非常に大きな負担となる仕組みでした。定免制(じょうめんせい)などと言われたそうです。また新たに水田を開発するよう奨励しました。これも生産量の増加につながりますので幕府の徴収する年貢の量の増加につながります。また各大名に1万石につき100石のお米を幕府に納めさせる制度を導入しています。上げ米の制(あげまいのせい)と呼ばれている仕組みで、これによって各大名から納められたお米は年に18万7000石にもなったという指摘があります。そのかわり各大名の経済的な負担になっていた参勤交代について江戸滞在の期間を半年に短縮する配慮も同時におこなっています(通常は1年だったそうです)。また人件費がかさまないような仕組みも作っています。石高の少ない人材に要職を担当させるため作った「足高の制(たしだかのせい)」です。これまでだと人材を要職に据える場合、要職退任後もずっと高い給料が払われ続ける仕組みだったそうですが、足高の制によって人材に払われる給料の額は要職を離れた後、要職に就く以前の安い額に戻されることになりました。

 

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お米の価格を安定させようとしました

 

新田開発によってお米がたくさん取れるようになったことや世の中に出回る貨幣の量が少ないことなどからお米の価格が下落し、お米を俸給として幕府や藩からいただいてそれをお金に換えて生活しているお侍さんたちは暮らしが苦しくなってしまいました。お米の価格を安定させるために貨幣に含まれる金や銀の含有量を減らして世の中に出回る貨幣の量を増やすような政策も吉宗さんの時代にはおこなわれていた時期があったそうです。世の中にお金が多く出回るようになると物の値段が上昇する方向に変化することが期待できます。世の中に出回るお金の量を増やしてお米の価格を上げてお米の価格の下落を食い止めようとしたということですね。

 

裁判や庶民の意見の聴取

 

裁判を効率的におこなうことにも配慮したそうで、規則や裁判の判例(裁判でくだした結論のことです)をまとめ公事方御定書(くじかたおさだめがき)というものを編集させたり、お金の貸し借りに関する訴訟は当事者同士で解決させることにして幕府の裁判の負担を減らしました。相対済まし令(あいたいすましれい)と呼ばれる規則です。また目安箱(めやすばこ)という投書箱を作ることで庶民が投書する機会をもうけて必要だと考えた案件については実際の政治に生かしたそうです。小石川療養所(きしかわりょうようじょ)の設立は目安箱での投書で実現した有名な事例だそうです。

 

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今回は享保の改革について一部取りあげました。江戸幕府中ごろの政治改革としてとても有名な話ですが、個人的には吉宗さんがどんなことをしたかあまりよく覚えておらず確認のためにこのようなテーマで記事を作ってみました。今の世の中でもおこなわれるような、金融緩和のようなことをしていたという話は学校で歴史の勉強をしていた頃そんなに意識した記憶がありませんが、ただ私が忘れているだけなんでしょうか。いずれにしてもそのような経済政策を1700年代におこなっていたということがとても意外な感じがしました。幕府の台所事情を改善するために納めなければならない年貢の量を増やして、その結果農民の方々の負担がきつくなったのは気の毒な話ではあります。定免法をやらずに新田開発だけで様子を見るわけにはいかなかったんでしょうかね。上げ米という大名から臨時でお米を幕府に納めさせた制度でも各藩の農民にしわ寄せがいってしまったという指摘もあるようです。

 

今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。  <(_ _)>

※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。

江戸時代の他の時期におこなわれた政治改革の話「松平定信の寛政の改革とはどのような内容だったのでしょう」はこちらです。

江戸時代末期の将軍跡継ぎに関する話「家定公将軍継嗣問題での井伊直弼と島津斉彬の立場について」はこちらです。

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