田沼意次さんと松平定信さんの政治の違いは何なのでしょう
田沼意次さんと松平定信さんの政治の違い
田沼意次(たぬまおきつぐ)さんが活躍した時代というのは西暦1767年(明和めいわ4年)から1786年くらいの間だったと言われており、一方松平定信(まつだいらさだのぶ)さんが活躍した時代というのは1787年から6年間くらいです。田沼さんも松平さんも徳川幕府内で強力な権限を持つ立場となって幕府の赤字状態を改善させようとしたという点では共通しているのですが、その目的のためにおこなった政策には違いがあったと言われています。どのような違いがあったのでしょう。幕府の税収を増やすために重視した産業分野が異なっていたというのは一番大きな違いと言えます。財政の改善とは話が違いますが、他に賄賂に対する姿勢も違いがありましたし、学問、言論の統制、武士階級の経済状況への配慮、貧しい階層への配慮についても違いがあったと言えるかと思います。以下の項目で補足してみます。
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重視した産業分野
田沼さんの場合は商業分野にテコ入れをして、その分野の商人の収益を増やし、得られる税金を増やし幕府の赤字を改善しようとしたようです。商人から冥加(みょうが)、運上(うんじょう)といった税金のようなものを取り立てるようにして、その見返りに株仲間(かぶなかま)と呼ばれる同業者団体を結成して業界に新たな業者が参入しにくくし、既存の業者の利益を維持しやすくすることを認めました。銅や鉄を幕府の専売にするという改革もおこなったそうで、それによる収益を幕府の財政状況を改善させることに役立てようとしました。専売ということはこの場合、幕府だけが銅や鉄の売却をおこなう、他の業者が銅や鉄の売却をおこなうことは許可しないということです。他にも清国などとの貿易を盛んにしてそこからも収益を増やそうとしたようです。一方松平さんの場合は農業分野にテコ入れをして農業生産の増加を図り、それによる幕府の年貢収入増加につなげて幕府の赤字を改善しようとしました。別の記事でも扱いましたが飢えなど生きていくことが困難な状況を理由に農村を離れて都市に流入した農業従事者に対し資金の支援をするなどして故郷に戻ることを奨励したり、都市への流入を制限する規則を作り農村での農業従事者の減少に歯止めをかけようとしました。また飢饉で農民が苦しむと農地を捨てて都市に流入してしまうわけですから、飢饉になっても何とか農村で生きていけるよう囲い米(かこいまい)という穀物の備蓄制度を作りました。反対に松平さんは田沼さんが政治をおこなっていた時代に対する反動でもあったのでしょうか株仲間などを解散させています。商業分野からの税収を田沼さんほど重視していなかったと言えるかと思います。
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賄賂の禁止、学問や言論の統制、一部階層への配慮
田沼さんの時の政治に批判的な対応をしたというのが松平さんの政治の特徴ということでもありますから、田沼さんがせずに松平さんがやったということで松平さんのとった政策の列挙ということになってしまいますが、田沼さんの時代にはびこった賄賂(わいろ)の習慣を禁止することにしたのは有名な話ですし、朱子学を尊重し、他の儒学の学派の学問を幕府の役人登用の試験科目から除いたり、幕府が保護していた儒学の施設で朱子学以外の講義をさせないことにするような学問の規制もしました。幕府に対する政治批判をかつてよりも厳しく処罰したそうですし、風俗を乱すという理由で洒落本のような書物の流通を禁じたりしています。また松平さんは幕府に仕えるお侍さんたちが商人から借りたお金、借金を帳消しにしたり利子を減らすような規則を作ったり、都市部の運営に使うお金を切り詰めさせて浮いたお金で貧しい人達を支援するような仕組みを作るような武士階級や貧しい階層に対する支援策を講じたという特徴があります。田沼さんの時代の政治ではこのような内容の話は特に聞かれません。
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今回は田沼意次さんと松平定信さんの政治の違いについて一部取りあげました。田沼さんも松平さんも、おこなった政治については歴史の授業でよく扱う話題ですね。二人が対照的な政治をしたというのは授業でもやったような気はするのですが、田沼さんがおこなった政治はどういうものだったかという点は私自身相当忘れていたため、このようなテーマの記事にして田沼さんの仕事を調べてみようと思いました。これまで農民から年貢を相当な割合徴収していたわけですし、今まで以上の高い税率をかけて年貢を取り立てれば農民の方々が疲弊してしまうでしょうから農民の負担を増やさずに商人からお金を取り立てて幕府の赤字を改善しようと考えるのはとても合理的な感じはします。ただ株仲間のような閉鎖的な枠組みを作ることで商人が販売する品物の値段が上昇傾向になり、消費者が苦しむという現象が起きたという指摘もありますのでテコ入れの仕方もなかなか難しいものです。田沼さんの政治は長く続いたからなのか凶作の時期にぶつかってしまい飢饉で苦しむ農民が多数出て政治がうまくまわらなくなってしまったようです。普段から凶作を想定して備えをするという松平さんの囲い米という政策に取り組んだ発想は現代でも教訓となるような気がしました。
今回の記事は以上となります。最後までご覧いただき誠にありがとうございました。 <(_ _)>
※記事内容と掲載している写真に関係はございません。ご了承ください。
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全く異なる時代の積極財政が関わる話「金輸出再禁止とは?円安の経過や蔵相の他の政策についても」はこちらです。
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